讃岐漆芸は、江戸時代後期にあらわれた高松藩の漆工玉楮象谷に始まる。当時、江戸や京都では蒔絵が主流であったが、最高度に発達した技術によって技巧主義におちいり、マンネリズムの様相を呈していた。象谷はあえて蒔絵によらず、京都の東本願寺や大徳寺に伝来していた堆朱、堆黒など中国から舶載された唐物漆器、あるいは茶人のもてあそぶ「キンマ手」とよばれる南方渡来の籃胎漆器に着目し、これを摸して地方色豊かな漆器をつくった。彫漆は、色漆を塗り重ねて文様を彫り出す技法。蒟醤は、蒟醤剣で文様を彫り、その彫り口に色漆を埋め、研ぎ出す技法。存清は、色漆で文様を描き、輪郭や細部を線彫りする技法である。また籃胎は、竹ヒゴで編んだ素地である。藩主はこれらを「讃岐彫」、「讃岐塗」として奨励し、象谷に玉楮の苗字を与え、帯刀を許した。
象谷の死後、その子雪堂があとを継いだが、孫の三代藏谷の明治末年に歿すると、直系は絶えた。一方、象谷の弟文綺堂黒斎は、存清、蒟醤の製法をもとに実用漆器の産業化をはかった。しかし、しだいに業界が粗製濫造するにおよび、明治末期には讃岐漆器の代名詞とみられていた存清は姿を消した。代わって漆器産業の中心となったのは、木彫りに色漆をほどこす讃岐彫りであった。電動ロクロの導入によって、手間のかかる籃胎素地から量産化が可能な木製素地への産業構造上の転換があったからである。讃岐漆器と讃岐彫りの店「百花園」とその周辺からは、石井磬堂、鎌田稼堂などの彫りの名手が輩出し、彫漆にも優品を遺した。
磯井如真は中興の祖である。如真は象谷や黒斎の遺した作品をみて、讃岐漆芸をよみがえらせた。ことに大正初期、象谷の線彫りに対して、点彫り蒟醤を創案し、濃淡と奥行きを出すことを可能にした。昭和二年帝展に工芸部が設置されてからは、独創的で近代的感覚にあふれる作品を次々に生み出し、漆工芸の近代化を確立した。また磬堂の内弟子であった音丸耕堂は、多彩な色漆を用いて、すぐれた彫漆作品をつくった。
このたびの展示では、玉楮象谷からの現代の人間国宝にいたる讃岐漆芸の流れを、当館所蔵の選りすぐりの作品24点(10作家)によりご紹介いたします。