以前「ロダン展」の会場(高松市美術館)で、小学生グループの数人に、《考える人》を前にそのポーズをしてもらいました。すると、見ているだけでは分からなかったこと、たとえば、あの姿勢を保つことの困難さや形体の部分的なデフォルメを子どもたち自身が発見してくれました。いわば「変身」することによって、作品と交感し鑑賞が深められることを、笑みがこぼれる展覧会場で実感したわけです。美術館における近年の教育普及事業において、作品に対する能動的な鑑賞、ただ目で見るだけではなく他の知覚を用いたり、美術や表現の歴史性を意識しながらの鑑賞は、珍しくない光景となりました。
そうした取り組みは、マルセル・デュシャンがレディ・メイド(既製品)をオブジェとして提示し、それまでの芸術概念を根底から変えてしまったことに端を発する、その後の現代美術の多様な表現と通低するものと思われます。男性用便器を横倒して《泉》という作品に変身させたり、名画《モナ・リザ》に髭を描き込んで性別さえも転換してしまった
デュシャンを「はじまり」として、60年代のポップアート(大衆芸術)旋風を経て、80年代のシミュレーション・アートに至るまで、作家自らの身体を通して過去の事物あるいは記号やイメージに積極的に関わり、それらを踏み込んだ形で利用することによって作品を発表してきました。
何ものか[に・が]変わることは魅惑的な行為ですし、また不可思議な現象です。今回、「変身」をキーワードに、まずは過去の美術作品の模倣あるいは引用の連鎖のなかでの変身を見てみましょう。〈美術史の娘〉である森村泰昌、福田美蘭、そして虹の画家・靉嘔の「変身」です。また、見慣れた身体の一部分に「偉大さ」や「物語」をまとわすことなくアートに変身させた三木富雄、菊畑茂久馬、草間彌生、小島信明。最後に、砂やダイオードといった物質を使って、目に見えぬボーダー(境界)を喚起させる作品を提示する柳幸典、鯉江良二、宮島達男。それら作品と交信することによって、みなさん自身の世界観もまた、何ものか[に・が]変わる瞬間に立ち会うことになるのかもしれません。