平安時代初期、唐より帰国した空海によって日本に密教が伝えられたことはよく知られています。しかし、すでに奈良時代にも数多くの密教経典が日本に伝えられており、種々の密教修法が行われていました。奈良仏教の著名な僧には、良弁や道鏡のように密教を信奉した人物が数多く、密教はかなり浸透していたことがうかがえます。唐に渡る前の若き空海も密教経典を読み、また山林修行や虚空蔵求聞持法などの密教的な修行を実践しています。もし、空海が奈良時代の密教を知らずにいたとしたら、密教を志すこともなく、きっと平安時代以降の仏教は今日私たちが知るものとは違う姿になっていたことでしょう。
古密教では十一面観音や千手観音などの多臂多面の観音像や、後の明王の萌芽を感じさせる忿怒相の菩薩像、また悔過法要の本尊として薬師如来像や吉祥天像が造られました。空海以降の密教と違い、古密教には曼荼羅や明王像はまだありません。しかし、奈良時代の洗練された古典美に呪術性が加わった造形は、霊験さえ感じさせる迫力に満ちています。また、古密教の修法では古式三鈷杵や鐃と呼ばれる法具が用いられましたが、その簡潔で研ぎ澄まされたかたちは、空海以降の法具とは違う魅力を持っています。
特別展「古密教-日本密教の胎動-」は、これまで見過ごされがちであった奈良時代の密教に焦点を当て、そこで生み出された優れた美の世界をご覧いただく試みです。
本展では、中国国外で初めて展示される十一面観音像(河南博物院)をはじめ、秘仏の国宝・吉祥天像(奈良・薬師寺)、国宝・両界曼茶羅(京都・東寺)、近年新発見の重要文化財・十一面観音立像(奈良・与楽寺:広瀬)など、拝観の機会が得がたい名品が出陳されます。この展覧会を通して、もう一つの密教世界を発見していただけるものと思います。