小野竹喬(1889~1979)は、その前半期の大正12年(1923)までは「竹橋」という雅号を用いていました。この時期を一般的には「はし・ちっきょう」という名称で呼んでいます。
この改号は、日本画家小野竹喬の大きな転機を示すものでした。大正10年10月から翌年5月にいたる渡欧を終えた竹喬は、渡欧以前の油彩画的な写実表現にもとづく風景画を、徐々に東洋画の「線」を意識した心意的な風景画へと変化させていきます。それは「色を塗る」効果から「線を生かす」意味へと移ったともいえます。いわば、西洋から東洋への方向変換がなされたわけです。
この大きな変化は、戦後にいたる竹喬芸術を生み出す源泉となっています。しかしながら、明治36年(1903)に竹内栖鳳門に入って以来、日本画と洋画という区別に全くこだわらずに、ただ果敢に絵画表現の可能性に挑んだその覇気ともいえる「熱い思い」は、この改号を境に薄れていきます。<竹橋>時代とは、竹喬の「疾風怒涛」のときであったといえます。
この<竹橋>時代の作品に対しては、一般の鑑賞者よりも画家や古美術商など玄人筋の評価が高いようです。特に洋画家小林和作が、竹喬の若描き、つまり<竹橋>時代の作品を好んで蒐集して、この時期の作品による画集制作すら企画していたことはよく知られています。
今回の展覧会では、竹喬の青春時代ともいえる<竹橋>落款の作品を一堂に集めて、その魅力を徹底的に探ってみます。前期では館蔵品を中心に、後期は個人所蔵など館外の作品を中心として紹介します。この中には初公開の作品も含まれています。この企画により、どちらかといえば戦後の竹喬に偏重していた評価を改めて見直して、絵画とは何か、芸術とは何かを真っ正直に追い求めた、その純粋な姿に触れてみたいと思います。