清酒発祥の地で知られる伊丹市。伊丹市は東に猪名川、西に武庫川にはさまれたなだらかな丘陵地帯にあります。大阪から約10キロ、神戸から約20キロと恵まれた都市環境と自然環境から、阪神間のベッドタウンとして発展してきました。
また時代を遡れば、江戸時代の伊丹郷町では酒蔵が軒を連ね、大いに隆盛を極めました。そしてその経済力を背景にして、「東の芭蕉、西の鬼貫」と並び称された上島鬼貫らが伊丹風俳諧を興し、京・大阪から多くの文人墨客を招来した。
さて、1920(大正9)年7月、阪急電鉄の神戸線と伊丹支線が同時に開通した。伊丹線の開通は伊丹住民の明治後期からの念願であったが、本線でなく支線となったことにより、住宅地開発が他の沿線地域に比べると遅れがちになっていた。
1925(大正14)年、阪急電鉄は稲野駅の西南2万2000坪に稲野住宅地を開発し、碁盤目状に分けられた区画に土地・和風建築を分譲した。
つづいて1934(昭和9)年、阪急電鉄は、伊丹支線に新伊丹駅(稲野駅と伊丹駅の間)を設ける。と、ともに阪急電鉄は積極的に伊丹での住宅地開発にのりだした。
これらの背景には、明治以降の日本の近代化政策により大阪市中心部の都市環境が悪化し、よりよい自然・生活環境を求めて、住まいを大阪中心部から郊外に移す動きとも関わっていた。このような動きが近代の阪神間の住宅地開発の契機となった。
伊丹では、1920年に阪急電鉄による伊丹支線の開通とともに住宅地開発が進められ、殊に1935(昭和10)年前後の伊丹町では「勤めは阪神、住宅は伊丹」「殖やせ住宅、減せよ原野」という標語を掲げ、町をあげて住宅地の開発を推進した。と同時に町役場の新築や幹線道路の開通などが相次ぎ、伊丹の都市化・近代化は急速に進められた。
本展では、2005年の市制施行65周年を迎えるにあたり、伊丹のモダニズム再発見と称し、建築、美術、ライフスタイルなどの分野からその歩みを検証するものです。(因みにモダニズムとは19世紀に欧米で起こった考え方で、伝統的な規範や価値を超えていく営みのことです。)