今からおよそ百年前、1900年にパリで開催された万国博覧会では、アール・ヌーヴォーがその絶頂期をむかえていました。
「新しい芸術」を意味するアール・ヌーヴォーは、過去の装飾様式から脱却して自然の形態へと立ち返り、植物や女性をモチーフとして、想像力のおもむくままに展開させた流麗で装飾性豊かな表現に大きな特色があります。パリ万博を機に渡欧した日本の美術家たちは、フランスでのアール・ヌーヴォーの大流行を目のあたりにして強い衝撃を受け、やがて日本においてもその影響が見られるようになります。
アール・ヌーヴォーの伝播をきっかけとして、日本の工芸家たちの間では、技巧を重視した「職人主義」的なものから脱却し、創作性豊かな工芸品を制作しようとする機運が高まるとともに、西洋の単なる模倣ではない日本独自の表現を模索する動きが見られるようになります。アール・ヌーヴォーの源泉にはジャポニスム、すなわち日本美術からの影響があったのですが、それがいわば逆流現象を起こして日本の美術家たちに作用し、例えば琳派が日本的なデザインの系譜として再発見されるというように、日本におけるアール・ヌーヴォーはさまざまな様相を示していきます。
また、パリ万博を機に渡仏した洋画家の浅井忠が、帰国後、京都に移住して陶磁器や漆器などの制作にも積極的な取り組みを見せたように、美術家たちがジャンルの枠組みを越えて、工芸やデザインなど、生活の身近なものの制作にも高い関心を向けるようになるのもアール・ヌーヴォーの重要な側面といえます。
このようにアール・ヌーヴォーは日本の美術家たちにさまざまな刺激を与え、日本の近代の工芸デザインの原点ともいえる活動が繰り広げられることになるのです。
この展覧会では、パリ万博が開催された1900年(明治33)から、関東大震災が起こった1923年(大正12)の時代に活躍した画家、図案家、工芸家、建築家たち――浅井忠、藤島武二、板谷波山、杉浦非水、橋口五葉、武田五一、藤井達吉ら――の作品により、アール・ヌーヴォーが日本におよぼした影響と、その後の広がりを紹介します。