日本を代表する洋画家のひとり、三岸節子の画業を紹介いたします。
三岸(旧姓・吉田)節子は、1905(明治38)年、愛知県起町(現・一宮市)に生まれ、21(大正10)年に上京、岡田三郎助に師事。翌年、女子美術学校(現・女子美術大学)2学年に編入、画家を志します。同校を主席で卒業後、三岸好太郎と結婚。翌、25(大正14)年には女性として始めて春陽会に入選し、世間の注目を集めます。夫、好太郎が31歳で早世してからは、3人の子どもを育てながら、女性画家の第一人者として、また油彩画の開拓者として時代の先頭にたち、力強い作品を描きつづけました。54(昭和29)年、49歳で初めて渡仏し、南仏、スペイン、ヴェニスなどを旅行。特に南仏カーニュで体験したまばゆいばかりの地中海の光は、日本人が油彩画を描く困難を改めて自覚する契機となり、のちの大きな飛躍を用意します。帰国後は、軽井沢のアトリエにこもり「火の山」と題された≪飛ぶ鳥≫の連作に取り組み、その分厚く塗り込められた画面からは、画風の新たな展開が予感されます。さらに、平塚にほどちかい大磯にアトリエを移してからは、色彩が明るさを増し、伸びやかな筆致がみられます。68(昭和43)年、本格的に風景画に取り組む決意を胸に、63歳にして再度、渡仏。ブルゴーニュ地方の鄙びた村、ヴェロンにアトリエをかまえ、以後、20年余りをフランスで過ごします。この間、次々と傑作が生まれ、日本はもとより海外でも高い評価を受けます。89(平成元)年、体調不良のため帰国。94年女性洋画家として始めて文化功労者となります。そして大磯のアトリエで最後まで制作意欲を失うことなく絵筆を握り、99(平成11)年、94歳で亡くなります。
本年は三岸節子の生誕100年にあたります。これを記念し、各時代の代表作を一堂に展観し、あらためて三岸芸術の豊かな魅力をご紹介するものです。