昭和34(1959)年、折からのいわゆる「エネルギー革命」のもとに強行された石炭から石油への転換政策は、九州の炭田地帯に多くの失業者を出しました。土門拳はこの年の12月、閉山の続く筑豊の炭田地帯にもぐり込み、貧困にあえぐ人々とそのこどもたち、そして家族ぐるみで団結して闘う労働者たちを集中して取材しました。当時50歳。撮影から帰京後、過労がたたったのか、第1回目の脳出血で倒れています。
翌年1月、定価100円の写真集「筑豊のこどもたち」がザラ紙に印刷されて刊行されました。その前に出版された「ヒロシマ」がテーマに反して豪華すぎるとの批判にこたえたのか、土門は「この写真集だけは美しいグラビア用紙ではなく、ザラ紙で作りたかった。丸めて手にもてるそんな親しみを、見る人々に伝えたかった。いわば、≪尻っぱしょりの≫写真集にすることが一番ふさわしいように思えたのだ。」と語っています。この100円の写真集は10万部を超すベストセラーとなり、続編「るみえちゃんはお父さんが死んだ」と合わせて、ルポルタージュの名作として、社会的に大きな反響をもたらしました。