大正から昭和にかけて世界的なベストセラーとなったカメラ「ベスト・ポケット・コダック」は通称「ベス単」と呼ばれ、多くの人々に親しまれました。手ごろな価格で入手しやすい大衆向けの小型カメラであったという理由に加え、“ベス単フードはずし”と呼ばれる独特な手法によって生み出されたソフトフォーカスのような表現が「絵画的」であるとして多くのアマチュア写真家たちを魅了したのです。
「ちょっと沈んだボケ味は、昔のままではないか。」(「日本カメラ1981年11月号」より)――長い歳月の後に、35ミリ一眼レフカメラへの装着を試み、“古きよきレンズ”、「ベス単」でファインダーを覗いた植田の懐旧的な心情は、“古きよき光”の再認識するきっかけになり、写真の表現の可能性を拡げることにもなったのです。こうして「ベス単」レンズによるカラー作品の数々、ヨーロッパを舞台に撮影したシリーズ〈西欧紀行〉(1978年)や山陰の風景や人物を撮影したシリーズ〈白い風〉(1980-81年)が誕生したのです。
まるでベールをかけたようなあの美しさ、記憶の中で出合ったような不思議な輝きを放つ風景や佇む人たち。「ベス単」レンズで描かれた被写体は、叙情や郷愁をのせて爽やかな空気感を運んでくるかのように、あわい光に包まれています。
今回の展覧会では、「ベス単」レンズによる表現を現代のカラー写真によみがえらせた植田のシリーズ〈西欧紀行〉〈白い風〉を中心に、1930-40年代の作品と合わせて紹介します。古いレンズと植田の感性とが織りなす表現の世界と、“古きよき光”につつまれたまなざしの軌跡をご覧いただけることでしょう。