TARO NASU では2月16日(金)より榎本耕一個展「Some lights」を開催いたします。
新型コロナウィルスに世界が揺れた2020年以降、絵画表現を通して世界を支える新しい価値観を模索してきた榎本耕一。国内外の美術館や公的コレクションによる作品収蔵も進み、アジアのみならず欧米のアートシーンでの存在感も増してきた注目の作家です。今回は新作11点からなる個展を発表、見るものにパンデミック以降の人間社会における「生命の躍動elan vital」を問いかけます。
「改めて再現すること」榎本耕一
もう死んだ鳥を描いているとき、もういないはずの鳥が目の前に蘇ったという錯覚に囚われることがある。(図像の)再現は絵が実現できる機能の一つであり、そんなことは当たり前だと考えてきたけど、それでも、死んだ鳥が目の前に蘇った気がすることは驚きだった。それで、僕にとって再現とは「そのような意味」を新たに含むことになった。再現には「あ」と思わせる何か、それに引き続きエンパワーに近い何かがまだある。
僕にとって芸術は、簡単にいうと「明日も生きる気にさせる」ものだ。願わくば、僕もそんな作品を作りたい。方法は、「再現」によって。何を再現するのかというと、自分の記憶の中にある人たちがこんな顔や表情をしていた、こんなことをしていた、とりわけ、存在している、存在していた、「いる」という感覚を再現する。図示にならないよう慎重に。もちろん、絵画・芸術とは何か、人間とは何かという考えを通して。できれば、鳥が蘇ったような新鮮な驚きを与えるようなかたちで。
人間は無限に近い時間の中の一瞬だけ存在する。それは記憶の中の友達の微笑みみたいに。だから、ただ立っているだけ、なんか笑っているだけ、こんな奴がいた、みたいな人を描く。(絵は見た人の記憶になるので、鑑賞者の有限な人生の中にさらに有限な記憶を設置する形で)
絵画は情報媒体であり、それは僕個人だけではなく、過去の画家たちの作法が遺伝子のように組み込まれている。それは見る・見せるという技術と思考の体系の断片である。例えば鏡の使用は絵画の常套手段であると同時に、光の反射の様態はreflectionつまり熟考するということの似姿。絵の前の滞在時間の中で、鑑賞者がモチーフからモチーフ、色から色へ視線を移す間に感じ取ること、考えること、それがreflection。だから、僕の絵はたくさんのモチーフや描き方が錯綜している。変な言い方だが、この絵と頑張って向き合って見てみようとさせる事、そのような絵になるように仕向けている。描いた僕がいるということ、描かれた人が絵の中にいるということ、それを見る人間がいることを際立たせるような絵を、できれば人間・絵画そのものを励ます(エンパワー)目的で描いている。
(2024.01.23)