小樽市潮見台は、明治から小樽の産業を支えてきた勝納川地域の傾斜地の一角を占める。
河口付近は幕末に市街地が形成され、隣接する若竹などは、ニシン漁の漁夫を客とする商店で栄えた。明治期の小樽の中心はここにあり、今も銭湯や市場が残る。明治10年代には、酒・味噌・醤油など醸造業者が創業し、酒造で財をなした北の誉・野口家の邸宅「和光荘」が潮見台に構えられ、その繁栄の象徴となっている。和光荘から坂道を下り、龍徳寺に至る中腹には、伝統ある庁立小樽中学校(現北海道小樽潮陵高等学校)がたっている。
青森県藤崎町に生まれた福井貞一は、親戚を頼って17歳のとき小樽に移り住み、1925年庁立小樽中学校に転入、その後、東京外国語学校に進んだ。卒業後、1939年母校の英語教師として再び小樽に赴任することになり、家族で潮見台に移住した。福井貞一が、樽中に勤務したのは、1939~1954年までの15年間であり、長男・爽人も同校に学んでいる。
この間、爽人が日本画家を目指したことから、貞一はこの潮見台の環境のなかで、国画会の版画家河野薫や水彩画家の中島鉄雄に息子の絵の指導を仰いだ。河野も中島もともに教員であった。また、貞一の樽中の教え子のひとり宮川魏は、東京藝術大学油彩画科に入学し、梅原龍三郎教室に学んだ。彼らは福井家が上京したのちも、東京でその交流は続き、特に河野薫とは密接な関係にあった。
シベリアから帰還し、戦後斎藤清の呼びかけで上京していった河野薫は、海外の日本の版画ブームで、爆発的な人気を博し注文も多く、ひとりでは制作が追い付かない状況にあった。そこで、自分の分身とも呼べる刷師が必要であり、貞一の長男である爽人に、その役目を託そうとした。海外へ作品を流通させる際には、貞一が英文タイトルを付けている。しかしその後、爽人は東京藝術大学の助手であった平山郁夫と出会い、日本画科入学を決意、当初の希望どおり入学を果たし、自らの道を歩んでいった。
本展は、庁立小樽中学校の英語教師・福井貞一と爽人が潮見台で出会った想い出深い人々を、貞一の旧蔵品である作品、書簡、写真類で展覧するものです。特別展「追憶の歌 日本画家 福井爽人」と連動する企画として、貞一・爽人親子二代にわたる家族の物語、爽人の生い立ちと、青少年期を培った小樽市潮見台に広がる背景をご紹介いたします。