支持体にマスキングテープを貼り、塗るべき形を区画する。泉依里の絵画を構成する最小単位は、テープを剥がしたときに浮かび上がる色面の一つ一つだ。シールのように薄く平らにせり出した色面どうしを、並べたり、重ねたり。事前の試行錯誤と、綿密な計画に基づくその仕事は、版画という出自にも由来するのだろう。泉は絵を描く、というよりも、組み立てる。構築という言葉が似つかわしいその制作スタイルは、彼女が好んで描く(農業用の)機械と、そもそも在り方からして共鳴していると言うべきか。
泉にとって重要なのは、色面のエッジを際立たせるための、余白だった。静物を描く場合も、風景を描く場合も、しばしばアンバランスに細長いその画面には、必ず白地が残される。どこであるかを説明しない寡黙な白を背に、あらゆる形態は断片とならざるをえなくなるはずだ。どこでもないどこかを漂うその機械や風景は、見えざる全体へと鑑賞者の意識を誘わずにはおかない。このとき白地は、鑑賞者の想像を受けとめる器として機能することになる。
こうした構造をもつ泉の絵画が、やがて展示室という現実空間へと射程を広げていったのは、いかにも必然的だと言えよう。アンバランスながらも矩形を保っていたその画面が、台形や五角形という、より複雑な形を帯び始めたのは2019年のこと。また、時を同じくして始められた紙作品では、支持体の折れ、めくれ、破れ、等々が積極的に提示されている。矩形ならざる画面と向き合いながら、その内部のイメージだけに集中するのは難しく、むしろ、いびつな形の画面を支える展示室の壁面そのものが、支持体として意識されるに違いない。
凝集と拡散。相異なるこの二つのベクトルが、泉の絵画を規定している。白地からくっきりと浮かび上がる静物や風景のシルエットが、意味ありげなタイトルを伴いながら、様々な読み解きを促すいっぽう、その画面は、白地へ、壁面へと意識を横滑りさせ、読み解きに専念させない。こんな両極間での引き裂かれこそが、泉の絵画を見るという経験の内実だと言えそうだ。
福元崇志(国立国際美術館 主任研究員)