昨年11月大宮政郎が亡くなった。92歳とはいえ1ヶ月前には当館の企画展の初日にみえられ、小一時間ひとしきり陽気に話されて「まだまだ3年ぐらいはやれそうだよ。」と快活に語り、持参した最新作の《降神(おりがみ)》シリーズとそのカタログのレイアウト案まで見せてくれた。
近年は失明同然で、手探りながら制作意欲は衰えを知らず、新作《降神》も使い古しのポスターを感覚的に折ったもので、半立体作品を目指したという。その前のシリーズの《天駆ける鬼》は、手足を版がわりに紙面に押し当てた触覚を頼りに作品化したものだった。これまで彼は、「芸術は発明だ!!」と自論を展開し、平面、立体に関わらず、どこにもない独自の造形考を提示、実践し続けた稀代の表現者であった。
戦後いち早く盛岡に開校した県立美術工芸学校に学び、深沢省三、紅子の薫陶(くんとう)を受け、グラフィックデザイナー兼、美術家として活動を開始する。デザイナーとしても岩手デザイン界に新風を巻き起こした若手の旗手であり、彼の元から巣立っていったデザイナーも少なくない。美術家としても、60年代には盛岡大通りの「CAFEモンタン」に集い、最先端の芸術を目指す詩人や画家、音楽家と交わり、盛岡の前衛美術グループ「集団N39」の立ち上げを先導し、全国的にみても質の高い美術集団として岩手の美術ここにありとセンセーションを巻き起こした。
シリーズ作品をたどると、60年代のプラスチックで固めたオブジェ《サイボーグプラン》に始まり、人が目まぐるしく動く高度経済成長時代の世相を反映した《人動説》や発明的な写真テクニックを駆使した《スリムフォト》。さらには綿に刷り込んだ《綿版画》。移り行く形象を造形化した《発掘された朝日と夕日》、《煙》や《光》シリーズというように、柔軟な思考で奇想天外のアイディアを実現させ、アートの可能性を問い続けてきた。
先の震災以降は、内なるエネルギーを画面にぶつけた迫力あるドローイングを矢継ぎ早に発表し、老いることの知らない永遠の青年画家さながらの生き様を見せてくれていた。また、的確な論評は人気を呼び、後輩アーティストを叱咤激励し、今日まで岩手の美術会をけん引してきた稀有な美術家でもあった。
亡くなる2週間ほど前には、「新作の《降神》で個展が開けるかなぁ?」と、相談の電話があったほどで、最後の最後まで現役作家という自負を抱えながらその生涯を終えた。まさしく「北異のマグマ・大宮政郎」を貫き通したブレない姿は神々しくもあり、神が降り、仏となっていってしまった。
最新作で個展のプランを温めていた大宮政郎。それを実見するとともに、彼の生涯の創造的な造形作品の軌跡を辿りたいと思います。