三重県松阪市出身の中谷 泰(1909~1993)は、いわさきちひろ(1918~1974)が師事した画家です。師弟関係は1~2年ほどでしたが、ふたりの交流は生涯続きました。これまであまり知られてこなかったふたりの画家の交流を作品と資料を通して紹介した初めての展覧会が、昨年、三重県立美術館で開催されました。*1 本展では、その成果をもとに、ちひろとその師・中谷の響き合うまなざしを紹介します。合わせて、今年で没後30年を迎える中谷の画業の一部を約30点の作品と資料からたどります。
家制度と戦争に阻まれた画家への道
ちひろは、14歳から4年ほど当時の洋画壇の重鎮・岡田三郎助のアトリエに通い、デッサンと油絵を学びました。そして、若干17歳で、朱葉会女子洋画展に入選を果たします。ちひろは女子美術専門学校への進学を希望しますが、両親に反対され画家への道を断念します。3人姉妹の長女だったちひろは、両親の勧めで婿養子を迎え、旧満州(中国東北部)大連へ渡ります。しかし、ちひろは夫に心を開くことができず、不幸なことに結婚生活は夫の自死により2年足らずで終止符が打たれました。1941年3月、22歳で未亡人となったちひろは、大連から東京へ戻ります。
帰国後、再び絵筆を手にしたちひろが師事したのが、春陽会に所属していた中谷でした。ふたりの接点を示す絵が、中谷の《婦人像》です。
生前の中谷自身がこの絵のモデルはちひろであると語っています。これまで、ちひろを知る人の証言などから、1942年10月開催の文部省美術展覧会(新文展)で特選となった中谷の《水浴》にちひろが感銘を受け、弟子入りしたとされてきました。しかし、この作品は、文展に先行する同年4月の第20回春陽会展に出展されており、ふたりの出会いはそれ以前であることがわかりました。ちひろが最初に師事した岡田は1939年9月に逝去しており、ちひろは自身の目で新たな師を探したのでしょう。中谷は1939年秋の文展でも特選を受賞しており、当時、新進気鋭の画家として注目を集めていました。ふたりの最初の出会いがいつだったのかは謎のままですが、戦中から戦後にかけてちひろが画家を志すまでの過程を見守った唯一の画家が中谷でした。
中谷は東京・世田谷の自宅から、中野にあったちひろの家を訪れて絵の指導をすることもあり、ちひろの家族とも親しくなります。1944年4月、時局が緊迫化するなか、ちひろとちひろの妹とその友人は、女子開拓義勇隊とともに旧満州(中国東北部)の勃利へ渡ります。この時、中谷は、ちひろの母からお目付け役として、同行を勧められます。中谷は、ちひろたちを開拓団へ送り届けた後、牡丹江にいた弟を探しに行ったほか、ハルビンに滞在して絵を描き、7月に帰国しています。ちひろたちは、戦況の悪化を見越した現地の部隊長の計らいで奇跡的に8月に帰国できました。翌1945年2月、中谷は応召し、長野県で農作業に従事します。東京にいたちひろたち家族は5月の空襲で家を失い、松本へ疎開します。自宅にあったちひろの絵はすべて焼失しましたが、焼け残った中谷のアトリエには、戦中に描かれたちひろの油彩が1点だけ残されていました。
戦後の再出発-民主的な表現を求めて
ちひろは終戦を疎開先の松本で迎えます。中谷は9月に長野から世田谷の自宅へ戻り、制作を再開します。師の無事を知ったちひろは、10月に疎開先から、手紙を書き送っています。そこには、絵は趣味に留めるつもりだと書かれており、ちひろの揺れる心情が垣間見えます。
自身の生き方を見つめ直したちひろは、終戦の翌年、画家を志し単身で上京します。上京後、間もなく「人民新聞」に絵も文も書く記者として職を得て、編集長を介して、画家の赤松俊子(後の丸木俊)を紹介されます。ちひろは、丸木位里・俊夫妻のアトリエで絵の研鑽にはげみ、流派を超えて民主的な芸術を模索する機運の渦中に身を置きます。1947年には、前衛美術会、日本美術会、そして日本童画会に入会し、それぞれの展覧会に出展するほか、1949年から1953年の間に女流画家協会展にも出展しています。*2 1948年に、ちひろが中谷に宛てたはがきには、展覧会に出す油彩を見てほしいと書かれており、ふたりの交流が再開していることがわかります。中谷も日本美術会へ入会し、同会が主催する展覧会へふたりとも出展することもありました。ちひろは、1950年に結婚し、翌年、長男を産みます。家を建て転居した1952年だけは出展していませんが、1955年まで油彩のダブロ―作品を発表し続けました。1954年には、東京都美術館で開催された第2回ニッポン展へ出展し、中谷と同室に油彩を展示しています。
ニッポン展は、ちひろが所属していた前衛美術会と、自由と平和を求め、社会主義リアリズムとは異なるリアリズムを模索する若い画家たちによって組織され、ルポルタージュ絵画の拠点ともなりました。*3 中谷やちひろは、ともに平和を希求しながら、土と共に生きる人や身近な子どもへまなざしを向け、自身の表現を模索しています。
1955年以降、ちひろは子どもの本の仕事が多忙になり、油彩を描かなくなり、《子ども》が最後に制作した油彩作品となりました。
中谷は、陶器の産地などを取材し、造形的な探求を深めていきます。そのほか、福島県にあった常磐炭鉱を、ふたりがそれぞれに取材して描いた作品や、1970年代以降の中谷の作品も展示します。
*1 「いわさきちひろ展―中谷泰を師として」 三重県立美術館 2022年7月16日-8月28日
*2 ちひろは、1949年4月第3回、1950年4月第4回、1953年6月第7回に出展しているが、同会の会員にはなっていない。
*3 桂川寛 『廃墟の前衛』 一葉社 2004年 p.158