いわさきちひろが絵本を描いた1950年代から1970年代は、日本の絵本が大きく花開き発展した時代でした。本展では、ちひろの代表的な絵本を、ちひろ自身や当時の編集者のことば、資料とともに、時代を追って紹介します。
絵本画家としての始まり-1950年代
戦後、日本では欧米の高い水準の絵本が紹介されるようになります。絵と文とが一体となり、1冊のなかで物語が展開する絵本は、童謡や童話などを見開きごとに別の画家が描く絵雑誌が主流だった日本の絵本に大きな影響を与えます。
1956年、ちひろは最初の絵本『ひとりでできるよ』を手がけます。これは、同年、「毎号1つの物語にひとりの画家がさし絵を描く物語絵本」という企画で福音館書店から創刊された「月刊物語絵本 こどものとも」のなかの1冊でした。編集者・松居直は、「非常にフレッシュな感覚の絵を描いて」いることに目を留め、当時、絵雑誌を中心に仕事をしていたちひろを起用しました。ちひろは、1週間ほど旅館に籠り、意欲的に取り組みます。5歳の息子を持つ母親としての視点やをもとに、日常のことができるようになっていく子どもの姿を生き生きと描き出したこの絵本で、ちひろは子どもが描ける画家としての評価を高めました。
新しい絵本への挑戦-1960年代
1960年代には、高度経済成長とともに、多くの絵本が出版され、日本の絵本は黄金時代を迎えます。絵本は新たな表現の場として注目され、新しい企画や本格的な絵本創作への取り組みが始まりました。ちひろもこの時代、革新的な絵本を手がけています。
1960年、ちひろは『あいうえおのほん』を出版します。童心社が初めて出版する絵本で、「子どもが字を覚える本、それを美しい日本語であいうえお順に並べる」企画でした。童話作家・浜田廣介の文章にちひろが絵を描いた本作は、「あいうえおブック」の先駆けとして高い評価を受け、絵本では初めてとなる産経児童出版文化賞を受賞しました。
1966年には、ちひろの強い希望で、アンデルセン童話の『絵のない絵本』が出版されます。人生の悲喜劇を描いた大人向けの物語を絵本にするため、童心社は、若い世代を対象としたモノクロームの絵本という新しい企画を立てました。鉛筆と墨で物語の世界を叙情豊かに描いた本書は好評を博し、画家が好きな文学を選んで描く「若い人の絵本」としてシリーズ化されます。子どもという制約なしで描いたこの仕事は、表現の幅を広げるきっかけともなりました。
絵本の可能性」を求めて-1968年
「新しい、生き生きとした仕事が本当にしたい」と考えていたちひろは、1968年、至光社の編集者・武市八十雄とともに「絵本でなければできないことをしよう」と実験的な絵本づくりに取り組みます。1作目の『あめのひのおるすばん』では、明確なテーマは決めず、「雨」「留守番」などの大まかなプロットをもとに絵を描いた後、それを並べて構成し、最後に短いことばをつけるという手法で、少女の心の世界を描き出しました。説明的な要素は極力省き、見る人のなかにうまれるイメージや感覚を重視したこの試みは、「感じる絵本」と呼ばれる新たなジャンルを確立しました。
日本の絵本の隆盛期に、絵本の可能性を求めて新しい絵本づくりに挑戦したちひろの仕事をご覧ください。