徳川家康と掛川三城
悩み苦しみ生き抜いた武将たちを美術資料により紹介します。
掛川城
掛川城は室町時代末期に駿河の守護大名今川氏が遠江攻略の拠点として家臣の朝比奈氏に命じ築かせたのが始まりです。(掛川古城)
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、今川氏は急速に力を失います。永禄11年(1568)武田軍に追われ掛川城に逃げ込んだ今川氏真(義元の息子)を家康が攻め、半年に及ぶ攻防の末、掛川城は家康に明け渡されました。
家康が関東に移った後は豊臣系の大名山内一豊が入城しました。一豊は天守閣などを築造し掛川城を近世城郭へと発展させました。慶長6年(1601)、前年の関ヶ原の戦い後の大名再配置により、掛川城には徳川家康の異父弟、松平(久松)定勝が3万石で入りました。その後、掛川城は石高2万6千石から6万石の徳川氏譜代大名の居城として、江戸時代を通じて存続しました。
高天神城
「高天神を制するものは遠州を制す」と称された高天神城は、戦国時代末期、武田信玄・勝頼親子と徳川家康により数々の攻防が繰り広げられ、激しい戦いの舞台となりました。
天正2年(1574)に武田勝頼が攻め落としますが、天正9年(1581)には家康が奪還します。落城とともに廃城となり、高天神城は歴史の表舞台からは姿を消しました。
横須賀城
横須賀城は、家康が高天神城奪還のための拠点として天正8年(1580)家臣の大須賀康高に命じ築かせました。
天正9年(1581)に高天神城が廃城となると、その後は遠江国南部地域を治める拠点として位置づけられました。近世を通じて石高2万5千石から5万5千石の譜代大名の居城となり、江戸幕府の老中を務めた城主もいました。
徳川家康と松平定吉
松平定吉は、掛川城守松平定勝の嫡子で徳川家康の甥にあたります。
武芸に秀で、家康にも目をかけられていましたが、慶長8年(1603)11月11日掛川城下にて19歳の若さで自刃しました。
その理由については、弓自慢の定吉が家康の面前で鷺を射落としたのに対し、家康から「無益な殺生」だと咎められたことに憤怒して自刃したという説のほか、諸説伝えられています。