- タイトル等
われ終に 萬鉄五郎に 及ばぬを しりて絵かきを 思ひとまりき
小田島孤舟 第13歌集『追憶の人々』(1948年)より
- 会場
- 萬鉄五郎記念美術館
- 会期
- 2022-12-10~2023-02-26
※展覧会のスケジュール・内容は都合により変更、および中止する場合がございます。ホームページをご確認ください。 https://www.city.hanamaki.iwate.jp/bunkasports/bunka/yorozutetsugoro/1002101.html
- 休催日
- 月曜日(月曜が祝日の場合はその翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)
- 開催時間
- 午前8時30分~午後5時
(入館は午後4時30分まで)
- 観覧料
- 一般400(350)円/高校・学生250(200)円/小学・中学生150(100)円
*( )内は20名以上の団体料金
- 主催者
- 萬鉄五郎記念美術館
- 概要
画家・萬鉄五郎と小学生時代に同級であった小田島孤舟(おだしまこしゅう)は、岩手県師範学校時代に石川啄木らと交友を持ち、明治から昭和にかけて活躍した歌人です。彼は72年の生涯を捧げ、短歌3800余首、歌集15編を著し、岩手歌壇の育成に貢献し「岩手歌壇の父」と称されています。
孤舟(本名:理平治)は1884(明治17)年、東和町小山田(現花巻市)の農家・佐々木金太郎 の次男として生まれます。土沢尋常高等小学校で、共に学んだのが萬鉄五郎でした。校長の新田浅之助から絵を教わり、二人は画家を志しますが、「われ終に萬鉄五郎に 及ばぬを 知りて絵かきを 思ひとまりき」と詠んでいるように、萬に敵わないと悟った孤舟は、新田のすすめで岩手県師範学校に進学。そこで文学に傾倒していきます。
孤舟が師範に進学した明治30年代は、盛岡中学に石川啄木らの「白羊会」、細越夜雨らの「闇潮会(あんちょうかい)」、師範学校には高野桃村らの「幽薫会」が起こり、学生らが県内の文学活動の中核をなしていました。その中にあって、孤舟も短歌や詩の制作に没頭。在学中の1905(明治38)年には啄木の「小天地社」を訪ね、交友を深めていきます。東京新詩社の『明星』に歌を発表し始めたのもこの頃でした。
師範学校卒業後の1909(明治42)年、教師として赴任した県北の浄法寺村は、「稲庭吟社」の句会が開かれるなど、文芸の盛んな土地でした。そこに、俳人の相澤暁村が村医として赴任すると、孤舟は彼と意気投合し、文芸誌『曠野(こうや)』を発行します。当初は一地方誌に過ぎなかった『曠野』でしたが、啄木ら中央の文人も寄稿するなど、地方文壇と中央文壇を結ぶ画期的な役割を果たしていきます。その後、1912(明治45)年には、第一歌集『郊外の丘』を発表。この歌集は宮沢賢治も購読した記録があり、彼の歌作に影響を与えたと言います。
1921(大正10)年、盛岡に居を移した孤舟は、盛岡高等女学校、盛岡女子商業学校、岩手女子高等学校などで教鞭をとり、多くの学生を指導しました。また、『白梅』『岩手教育』などの雑誌編集にも携わり、「編集の鬼才」と呼ばれました。
晩年は岩手歌壇の育成に励み、多くの歌誌や歌会を指導。書家としても活動した彼の自宅は「杉風洞(さんぷうどう)」と呼ばれ、短歌や書に親しむ仲間が集う、聖地となっていきました。
萬鉄五郎とも生涯親交が続き、孤舟の歌集や『曠野』の表紙絵、挿絵などを萬が手がけています。孤舟もまた、萬が画会を興した際には労を惜しまず支え続け、幼馴染だった二人は、別の道を歩みながらも生涯互いに認め合う仲でした。
本展では、歌人・小田島孤舟の生涯を、作品や資料を交えながら辿り、萬鉄五郎ら文化人との関わりにも焦点をあて、彼の足跡を紹介します。
- ホームページ
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