最後の幕府公認仇討を果たした新発田藩士、久米幸太郎はその後、現阿賀町日出谷へ下野します。また幸太郎の長子、三輔は福島県の須賀川医学所で学んだ後、縁あってやはり日出谷で診療所を開業します。現在の磐越西線の鹿瀬駅と日出谷駅間にある「平瀬トンネル」両口坑門にある石文は、鉄道院初代総裁を務めた後藤新平の揮毫になり、後藤は須賀川医学所時代、久米三輔の同期でした。また沿線の重要文化財五十嵐家住宅(阿賀町豊実)には、三輔が往診の際に残した「逆文字」(右手と左手で同時に揮毫)が伝わっています。このたび平瀬トンネル坑門石文の拓本や、逆文字(写真)などを展示し、新発田藩ゆかりの久米親子を通して岩越線(磐越西線)にまつわる物語を紹介します。
さらに、当時伊藤博文のもと工部少丞として明治の鉄道敷設の指揮をとった新発田藩出身の大野誠について、大野が学んだ私塾・絆己楼(はんきろう)(聖籠町の大野家)に残る書簡を展示し、その活躍を紹介します。大野とともに明治5年の鉄道開業式典列車(お召列車)に乗車したそうそうたるメンバーのうち、西郷隆盛、勝海舟などの書軸も展示します。