公益財団法人常陽藝文センターでは郷土作家展シリーズ第279回として、「常陽藝文センター開館40周年記念 小杉放菴と茨城の画家たち展」を開催いたします。
小杉放菴(本名国太郎、雅号は未醒、放庵、放菴。本展では放菴に統一)は栃木県日光市に生まれました。15歳で水戸市出身の洋画家・五百城文哉(いおきぶんさい)の内弟子となり洋画を学びます。一度は東京に憧れ無断で上京しますが健康を損ねて帰郷、何も咎(とが)めずに再び迎え入れた文哉を放菴は生涯敬愛し続けました。18歳の時に今度は師の許しを得て再上京し、不同舎に入り太平洋画会や文展に入選・受賞。また雑誌などに漫画やコマ絵(挿絵)を描き、同様に活動していた小川芋銭と知り合い「草汁(そうじゅう)漫画」の出版に協力しました。
明治45年には14年歳上の横山大観の知己を得ます。すでに日本画壇の中核にいた大観と率直にものを言う放菴は意気投合し、日本画と洋画の区別の撤廃などをうたう「絵画自由研究所」の設立を計画しました。しかし大観は岡倉天心の死去を機に日本美術院の再興を決意、研究所の計画はここに吸収されます。この頃放菴はヨーロッパに留学、本場の油絵を見て日本人の気質との違いを感じ、またパリで池大雅の作品(複製)に触れて東洋画の魅力を再認識します。放菴は大正3年の再興第1回院展に唯一の洋画家同人として出品しますが、その作品は日本画の中にあっても違和感がないと評されました。
放菴は大観らとともに資金集めを兼ねて各地を旅行、絵巻や画冊を共同制作します。
洋画部は大正9年に院展から脱退しますが、二人の交友は生涯続きました。後半生は日本画を中心に制作、大観に紹介された紙漉き職人の岩野平三郎による麻紙(まし)に描かれた渇墨毛筆画には、理想郷のような穏やかな世界が描かれています。
今展では放菴の初期から円熟期までの洋画と日本画を、前期は五百城文哉と小川芋銭、後期は横山大観の作品とともに展示します。
公益財団法人 常陽藝文センター