遠藤利克(1950~)の作る彫刻作品およびインスタレーションは、鉄、木、火や水、(空気)、といった素材を使用し、その圧倒的な物質感で鑑賞者を魅了してきた。
SCAI THE BATHHOUSEでの個展開催は7年ぶりとなり、木や鏡を使用した彫刻と平面作品で構成された、重厚な空間が展開される。
本展で中心となるのは、黒く炭化した柩の形状をした立体、そしてそれに対峙する壁面に掲げられた鉛の「空体」である。
遠藤の制作プロセスにおいてしばしば“燃やす”という行為がとられ、この柩の形状をした作品「空洞説ー鏡像の柩」も焼成されることによって作品が完結している。
そして本作の素材には、木、鏡、(火)、と表記されるのだが、見た目には黒い柩があるのみで鏡の存在はどこにも見て取ることができない。どこかに使用されているはずの鏡は、タイトル、そして素材表示のみによって限定的に示されるのみで、具体的にどのように使われ、どのような構造を成しているかは説明されない。すべては、観る者の想像力の内にゆだねられている。
鏡が鏡として成就するのは、ひとえにそれが、われわれの想像力の内に置かれ、存在している時のみである。現実世界に置かれた鏡は単に物体にすぎないことを、作家は示唆している。
現代の、先の見えない状況に対しての問題提起をしているようにも感じられる作品であるが、遠藤の思考はより広義で、人類と社会の成り立ち、文明といった極めて原初的なところにあるといえる。
柩や鏡は共に遠藤作品の中に繰り返し出てくる非常に重要なイメージで、空の柩の提示する空洞とは何もないのではなく、中心となり得る場、つまり共同体の中心を指し示す場所だという。ここでいう共同体とは、言語を、あるいは共同幻想を前提として出来上がる集団のことを指している。
また遠藤には、ジャック・ラカンの唱えた鏡像段階論をそのまま引用した「鏡像段階説」というタイトルのシリーズ作品があるように、作家にとって鏡とは表現も主張もしておらず、ただ映し出すだけのものであり、人間にとっての現象世界が、現実と想像世界のあいだの共同幻想的現象性であることを示している。鏡はまさに、そこに実体がないことを暗示させる素材となりえている。
総じて、遠藤が作り出す作品世界とは、漠然とした聖性のある空気の集まりのようなものといえようか。実体のないものを信じている、もしくは信じようとしている、愚かでも賢くもない人々の形成する共同体について、否定も肯定もせず作品として提示している。
あえて展覧会のタイトルをつけず、作家名だけを冠した本展。先入観なく展示と向き合う鑑賞者は、遠藤の作品から無限の言葉を読み取ることができるだろう。