■恩師・久野真先生 和泉俊昭
1956年、名古屋市立工芸高等学校の産業美術科(現デザイン科)に入学して久野真先生の教えを受けた。ある日、久野先生の制作と完成までの過程を見た。その時の印象がたいへん強かったので、その後の私の人生に大きな影響を与えた。
やがて久野先生は石膏から鉄、鉛、ステンレスに素材が移り、海外には平面のメタルアーチストとして知られるようになってゆく。久野先生は学徒出陣で海軍の特攻機に乗っていて、出撃間近になって終戦になり命拾いしたと聞いたことがある。ステンレスの鈍く銀色に光る無機質の質感が久野先生の戦争体験を反映しているように見える。
70年代になってステンレス作品は鋭く切られた直線が交差し奥行きが出て、より立体作品に近づいたように見えた。ある時、久野先生にこの先、立体になってゆくのですかと尋ねると、久野先生から平面だからいいのだよと一言なぞの言葉を戴いた。一本筋が通った人でした。
当時、多くのアーチストが東京や海外へ移ってゆく中で、地元名古屋で最後まで創作活動を通して国際作家として認められた人は久野先生しかいないと思います。私は久野先生を尊敬しつつもその影響力から逃れたかった。1968年アメリカへ渡り木彫を始め、74年中南米の旅の地でマヤ・アステカの古代遺跡に遭遇し、帰国して石彫作家としてデビューした。(彫刻家)