この度小山登美夫ギャラリーでは、戦後日本美術を代表するアーティスト、菅木志雄の新作展「集められた〈中間〉」を開催いたします。
菅は当ギャラリーにおいて毎年精力的に個展を開催していますが、本展では「ものは無常で流動的なものであり、作品はそのプロセスである」ということを焦点に作品を展開。
ギャラリースペース奥の部屋全体を使ったインスタレーションの新作と、壁面の立体作品の新作を発表いたします。
【本展「集められた〈中間〉」と、新作について
-ものの無常、プロセスの集合体 - 】
菅はこのような長年の制作活動の中で通底する思考がありつつ、基本的に「同じことはやらない」ように毎回異なる関心を持ってきました。
本展に際し、次のアーティスト・ステートメントを記しています。
「集められた〈中間〉」菅木志雄
モノは、だいたいにおいて、ヒトに無関係な時間を在りつづけている。それはヒトには簡単に理解できないような集積である。たとえ時間をかけたとしても〈在ることのプロセス〉を感知することはむずかしいと思われる。時間の長さも、その在り方もである。わからないながら、ヒトは、アートの名目で、無造作にモノを扱おうとする。それは、ヒトが創造するには、それを表わすためのモノが必要だと思っているからである。注意しなければならないのは、モノは根源的にアートに使用されるためにあるのではないということである。
〈存在するものである〉という意味では、モノも作品も同じかもしれないが、多くの場合モノの始原的な存在性というものは、だいたいにおいて制作の過程で失われてしまう。それは、本来モノが保有しているべき原質のようなものがなくなるということである。そうなれば、本質的にモノはモノでなくなり、カタチはあれど本来あるべき存在性は失われる。作品(モノ)はつねに途中のモノによって、できているのである。
菅はものは一定に留まっているのではなく、時間経過とともに動き変容する無常であると捉えており、本展においてその「もの」がもつプロセスの集合体が作品であることにフォーカスします。
菅は、次のようにも語っています。
「人間なら死んでしまうし、木であれば腐って、あるいは燃えてなくなっていく。そういう同じプロセスを踏むわけです。つまり有から無へ向かう。そういう途中にものは存在している。ものを変化させるというのは無への変化なんです。」
(菅木志雄インタビュー、聞き手=松井みどり、美術手帖、2015年3月号)
「普通にあるのものを、意味の力を加えて解体していくところが造形だと僕は思います。」
「アートは結局プロセスですよ。どんなに完成したものがあろうともプロセスでしかない」
(菅木志雄トーク、シンポジウム「もの派とアーカイブー海外への発信をめざして」、多摩美術大学、2016年)
それは菅の重要な制作活動、観客の前でのパフォーマンスイベント「アクティベーション」において、自身の行為、思考、制作プロセスを作品としていることにも表れています。
本展の新作「景素」「場空」では、端に置かれた数個の枝の断片と断片、その間を小さな石や木片が自由に軌跡を表しながら連なり、並べられています。その連続性がまるでものが意思を持って動いた結果であるかのようにそれぞれ異なる様相を表し、無限のリズムやエネルギーが作品の枠を超えてどこまでも続いていくかのようです。
また新作のインスタレーション作品「集空果」は、石とロープという限りなくシンプルな「もの」が部屋全体に縦横無尽に放たれ、果てしない連続性と空間性が、観るものの意識を活性化するでしょう。
美術評論家の松井みどりは、次のように評しました。
「(菅作品を見ることで)どれほど知識を積み上げても埋められない知覚の隙間が世界には存在し続けることの実感が、尽きることない自由な感覚をもたらした。」
(松井みどり「菅木志雄の方へ:生成する世界を捉える仕組み」、菅木志雄カタログ、小山登美夫ギャラリー、東京画廊、2006年)
フィジカルに人と接することや移動を制限された現在、菅作品を鑑賞することで、私たちはデジタル環境に慣れた感覚を開放し、ものは、人は、思考は、世界は常に変化し、繋がりながらも混じり合うことなく果てしない可能性が広がっていることを改めて感じることができるでしょう。とどまることがない菅の最新作をご覧にぜひお越しください。