豊後大野市出身の幸寿(1911~2003)は、1926(大正15)年、大分中学校に入学し、図画教師山下鉄之輔の影響で画家を志します。同校卒業後、早稲田大学に進学しますが、中退し、独学で画家への道を歩みはじめました。1936(昭和11)年、独立美術協会展に初出品、初入選。1940年からは、前年に結成されたばかりの美術文化協会展に出品するようになり、1943年、同展にて美術賞を受賞し、会員となりました。
この頃の画風には、ピカソやシュルレアリスムの影響が見られましたが、1956年、精神科の病院に2年間起居し、これを機に「狂女シリーズ」を描きはじめ、独特の画風を確立しました。1958年には新象作家協会を創立し、代表委員となりましたが、1964年、同会を脱会し、同年、原初会を創立。これも、1966年に脱会。以後は、東京や九州各地で精力的に個展を開催し、独自の作風を追求し続けました。