このたび小山登美夫ギャラリーでは、倉田悟の個展「Ba/u/cker La/u/cker」(バッカー・ラッカー)を開催いたします。
作家にとって弊廊での初個展となる本展では、3mを超える大作を含む約20点のペインティングを展示いたします。
擬人化された動物や、仮面を付けた人間のクローズアップ。誰しも見たことのあるような日常の一場面。倉田悟は、自身の記憶や直観的なイメージを出発点に、独特のユーモアと物語性を湛えた絵画世界を描き出します。
作品には、人や動物、家具や車といった具象的に描かれたモチーフが頻繁に登場しますが、現実世界や特定の時代性を連想させる要素は注意深く削ぎ落とされています。個人的な題材をあえて汎用的な造形に落とし込むアプローチには、作品の自画像的な側面を「閉じた物語ではなく普遍化する」倉田の作品に対する態度が反映されています。倉田が絵を描く理由には「人はなぜ生きているのか」という根源的な問いがあり、作家は政治やテクノロジーのためではなく、「人間のための作品」を作りたいといいます。
その姿勢は人物表現にも現れており、仮面を付けた人間や擬人化された動物たちは、倉田が理想とする「最低限の要素で構成されるキャラクター表象」で鑑賞者に感情を伝える、ある種のアバターとしての役割を果たします。また肉体の生々しさを抑えた表現は、写実的に人間の肉体を再現しようとしてきた具象絵画の文脈に対する作家独自の展開でもあります。
一方で、吸い込まれるようなカラーフィールドや光と影のコントラストは、観客の想像力を深淵な物語へとかき立てます。緻密な筆致で描かれる、明暗、彩度、疎密、有機と無機、厚みと透明感。これらの対比は画面全体のバランスを構築し、風景に「呼吸感」を与えます。本展では、3つの展示スペースが色彩の与える視覚効果によって分けられており、最初に真夜中を連想させるモノクロームの作品のスペース、次に黄昏時を描いた作品のスペース、最後に再び暗く、且つ有彩色の作品のスペースと、キャンバスに写し出された光景が現実の空間に与える視覚効果を最大限に発揮しています。またそれは、死に関連する領域の移り替わり、精神状態により視覚から彩度が失われることも表されています。
夕暮れ時のブルーアワーの青が与える印象を、倉田は古語における「かなしい」という感覚と結びつけます。愛し・悲し・哀しといった多様なニュアンスを含んだこの言葉は、倉田が自身の作品に共通して求めている感覚でもあります。また作品におけるユーモアも、生きることの無価値性、無意味性の重力から解放されるために極めて重要な要素だといいます。
本展のタイトルになっている「Ba/u/cker La/u/cker」(バッカー・ラッカー)という作品の題名は、ある日作家に訪れた『顔のついた卵が落ちる』というイメージと、合わせて浮かんだ「馬鹿落下」という言葉から来ています。作家は、タイトルについて以下の通り述べています。
「もともとBa/u/cker La/u/cker(バッカー・ラッカー)は美術における過剰な消費主義に対するアンチテーゼとして発想したもので、夜の街に転落する卵(ビギナー)とハンプティ・ダンプティのイメージが結合してできています。
ここでいうバッカー・ラッカー=馬鹿落下の「馬鹿」は自分自身を指しており、そうした消費主義に嫌悪感を抱きながらもそこに飛び込むしかない自分の状態を、洒落や自虐のつもりで、着想段階では表そうとしました。
馬鹿落下から転じて生まれたバッカーラッカーという言葉、あるいは4つの英単語「Back(うしろ・裏面) Lack(欠落・欠乏) Buck(男・金) Luck(幸運・運命)」は『後ろ向きで欠落・欠乏しているが幸運な男』という今の自分を示すような言葉でした。そうした直観や偶然が自分の中で必然性を帯びてくることを、制作において非常に重視しています。」
しばしば絵画の制作と並行して作品を補完するテキストを執筆する倉田にとって、こうしたイメージと言葉を反復するような意味の生成は、制作に欠かせない要素の一つでもあります。絵画が出来上がるにつれて紡がれる、作家の幼少期の回想や、架空の物語は、「ある程度時間をかけて絵を描いていくと、その絵を描いている本当の意味がわかる気がする」と作家が語るように、彼自身の世界の捉え方と作品の結びつきを表しています。
現実とフィクション、色彩とモノクローム、生身の人間と記号としての造形。突出したバランス感覚で具象絵画の新たな可能性を探る倉田の作品を、ぜひご高覧ください。
【作家ステートメント】
「日々を生きることに必死だったり、社会的に何らかの役割を持っていれば目を逸らして、忘れてしまうこともできますが、根源的に我々の存在の根拠は曖昧であり、つねに危ういものだと思います。
そういった存在の根拠のなさ、すなわち人生が無意味で無価値なのではないかという問いと、それにも関わらず紛れもなく存在する美と、心の動きについて、「私」を起点に制作してきました。
今まで私が作ってきた作品も全て、この「無価値性と美」という問いによって読み解くことができると思います。
私にとって制作とは、考えたことを再現するだけの行為ではありません。
自分で作ったものによって、より多くのことを気づかされ、それによってまた自己を認識するための行為なのです。
今描いている卵の絵の場合であれば、消費主義への嫌悪、自虐という、自分の置かれている状況から生まれた発想から出発しましたが、作品が完成に近づくにつれて、闇、あるいは宇宙空間のような空虚に1人で吸い込まれていくような感覚に至りました。
何も主張してこない記号的な顔もまた虚無を表していて、鏡のように見る人と相対して、その人自身を映します。
それらはやはり私の最大の問題である無価値性と美について表しているといえます。」