今も読み継がれる数多くの絵本を描いた赤羽末吉(1910―1990)。絵本画家としては遅い出発となった50歳までの年月、赤羽は時代の波に翻弄されながらも、心惹かれるものをあきらめることなく追い続けました。本展では、作品や資料を通して、明治から平成にかけての時代を生きた赤羽の人生をたどり、絵本画家となった背景を紹介します。
風土を描く画家
赤羽は1932年に旧満州(中国東北部)に渡り、以来15年間を彼の地で過ごしました。中国大陸の雄大な風土や長い歴史に育まれた郷土文化は、赤羽の絵心をおおいに刺激し、勤めのかたわら、本格的に日本画を描き始めます。日本が戦争によって植民地を広げた時代であり、国家の思惑として美術に地方色が求められた面もありますが、赤羽はその風土を描くことに情熱を注ぎ、画壇で活躍しました。日本の敗戦で当時の日本画は失われましたが、引き揚げのときにいのちがけで持ち帰った各地のスケッチや著書、掲載記事など多数の資料が現存します。なかでも内蒙古(内モンゴル自治区)を旅したときのスケッチや写真は、四半世紀のときを経て、絵本『スーホの白い馬』の制作におおいに生かされました。
長く日本を離れていた赤羽にとって、再び目にした日本の風土の美しさは格別なものでした。特に雪国への憧れを募らせて、1954年から毎年のように冬になると雪国を旅するようになり、そのしっとりとした風土を描くため、墨絵の表現を研究しました。
少しずつ子どもの本も手がけ、1951年には日本童画会にも入会していた赤羽は、1958年ごろ、月刊絵本「こどものとも」を創刊して間もない福音館書店の松居直のもとへ絵を持ち込み、絵本を描くことになります。「雪国」が描きたいという赤羽のために、松居が題材を選び、50歳のときに、墨絵の絵本『かさじぞう』は誕生しました。
天性の絵本画家
以後赤羽は、日本や中国、モンゴルの民話の絵本を数多く手がけるようになりました。勤めに出て家族の生活を支えながら絵本を描いてきた赤羽が、フリーの絵本画家になったのは1969年、このころから古典文学や自作の絵本など、その絵本はさらなる広がりを見せていきます。
1980年には国際アンデルセン賞画家賞を日本人として初めて受賞、その後も新しい挑戦を続け、80歳で亡くなるまでに80冊余りの絵本を遺しました。
物語の確かな解釈と類まれな演出力、風土や伝統文化への深い造詣、格調高く、かつ童心に届く詩情に富んだ絵画表現を備えた赤羽は、まさに天性の絵本画家といえる人でした。自らの感性が捉えたものを突き詰めてきた道が、その絵本に豊かに実を結んでいます。