茶室ひと間を作品とするというお話をいただいた時、茶道の心得がない私はどう捉えたら良いかとまどいながら、新しい挑みに胸が高なった。
夏の終わりにはじめて萩を訪れ、美術館の一番奥にある茶室の畳を長い時間じっと見つめた。寡黙の吐息のにおいがし、積もった時間のちりが見える。この場所と私の針目をつなげる何かが必要だ。
糸巻を募り、根室から那覇まで国内の各所から七千個あまりを提供していただいた。さまざまな方の「母の、祖母の、義母の、友人の」糸。ラベルが変わったため、在庫になっていた古い糸。一個の糸巻にそれぞれの道程がある。
目に見えないものに鼓舞され、煮つめられた私の針目はいま畳の上で触手を伸ばす。その先端を一個一個の糸巻に絡め、一堂に会したよろこびの中ここに至る風景を互いに告白し、くりかえされる歴史を凝視しているのではなかろうか。
アンソロジーとは詩撰、歌集などの意味だが、言語を調べてゆくと古代ギリシア語で「花摘み」の意味があると知った。
一年の展示期間である。
どんな日々だったかを報告しつつ、来たる春の桜を手向けて最終日を迎えたい。互いの時間を持ちより、ようやくこのたびの茶室での「アンソロジー」が編みあがるだろう。
沖潤子