「the one and only」 奥村泰彦
the one and only、甘い響きの言葉ではないだろうか。
唯一無二と訳すなら、ほかに取りかえがきかず、そのものでなければならないもの、ある理想としての存在。もの、と書いたが人であればただ一人の存在であり、誰かにとっての理想との伴侶でもあるだろう。
その実在を求めて人は様々な営みを行ってきた。あるいは人間の営みは唯一無二なるものの探求に終始するのかもしれない。いや、そのようなものの存在を信じ、追求しようとすること自体が、一つの理想的な態度であるとも言えるかもしれない。
と書きつつ筆者自身のように怠惰で、唯一無二に向かう努力には然程熱心でなかったりする者もいなくはない。この言葉を投げかけられた作家も、受け取り方はそれぞれだろう。
多様さに満ち溢れたこの世界の根拠を、唯一なるものに求める考え方もある。たとえば万物は完全なる一者(ト・ヘン)から流出した理性(ヌース)の働きによって生み出されたという考え。3世紀の哲学者、プロティノスが唱えた説である。自身より500年ほど前にプラトンが唱えたイデア論を展開したものとして、新プラトン主義とも称される思想である。人間はこの一者への愛によって、一者に回帰することができるとも説かれる。そもそも古代ギリシアのものの考え方自体が、一なるものから世界を説明しようとする態度を有していたようではあるが、それを体系的な説明として提示したのがプラトンであり、プロティノスであったということだろう。プロティノスはまた美についての思考を展開した人でもあり、美学といった学問を学ぶ時には触れられずには済まない人なのであった。といって筆者はその思想に詳しく立ち入れるほどの学識も持ち合わせてはおらず、そんなことを習ったものであったと回想するにとどまらざるを得ないので、興味を持たれた向きはご自身で勉強していただきたいのだが、さてしかし実際に作品を制作する場面では、そのような一なるものは措定されるものであろうか。
作品の構想が抱かれる時、また構想の実現に向かって制作される時、作者によっては構想など抱かないようにして、いきなり素材との関係の中から作品を作ろうとする姿勢を取る者もあれば、構想ができればひたすらその実現に向かって素材に形を取らせる者もあるだろう。そもそも構想において唯一なるものが志向されて実現されようとしているかも判然としない。およそ理想とされる唯一なるものは、そこに向かって制作が行われるものでありながら、具体的には存在せず、出来上がった作品においても実現されているのかどうか、確とはわかりかねるものである。
むしろ理想と考えられる一なるものは、現実世界では実現不可能だからこそ理想とされるのであって、実現された作品からは常に逃げ去っていくものであらねばならない。だから理想の唯一無二なるものを措定するならば、実現される作品はどれほどの達成の域にあっても、常に不十分で未完成であることを運命づけられている。むしろ、どこまでいっても途上にあることこそが、探求するものとしての作品の質を保証するものであるという逆説が生まれるとも言える。唯一なるものを指し示す可能性を持つ。すべての道はローマに通じるのである。
ダ・ヴィンチやミケランジェロの未完成な作品や、ドローイングの方が、時に完成された作品より強い魅力を感じさせるのは、そのような事情によるだろう。単に未完成なのではなく、完成作とされるものであっても、途上にあることが意味を持つ。
そのようにして制作される作品はまた、それ自体が唯一の存在となる。たとえ職人的な手わざによって、あるいは複製技術の利用によって、繰り返された同じ形を持とうとも、一個の存在として場を得た作品は、唯一なるものを指し示す唯一の存在として新たにこの世界に場を占めることになる。
その作品に出会う時、the one and onlyを一期一会と訳す解釈もあり得るだろう。唯一なるものに向かい、それを現出させる途上にある作品に出会う機会もまた、常に唯一であると考える態度である。
ここに出品する作家たちは、提示されたテーマに沿って制作せねばならないわけではないし、むしろ制作のしようがないようなテーマが提示されるのがこのシリーズの展覧会の面白いところである。比較的若い世代の作家たちに、作品についての思考を深める経験を積んでほしいという、ギャラリーの親心といったものでもあろう。
唯一無二の多様性といった逆説を楽しめれば幸いである。
(おくむらやすひこ・和歌山県立近代美術館)