寺崎廣業は慶応2年(1866)秋田市に生まれました。廣業の父は佐竹家に仕えた家老職でしたが維新後の生活は貧しく、廣業が15歳の頃には当館が建つ横手市で氷水を売って親の手助けをしたという話もあります。そのような廣業がいったいどのようにして高い筆技を身につけることができたのでしょうか。ひとつにははじめ狩野派の小室怡々斎に、のちに四条派の平福穗庵、南画家の菅原白龍にも出会い、3つの伝統的な画法を学ぶことができたことにあります。
さらには明治22年(1889)東陽堂への入社があります。東陽堂は当時美術雑誌『絵画叢誌』や石版画誌雑誌『風俗画報』などを出版する雑誌社でした。廣業は穗庵の後任として中国や日本の古名画や浮世絵などの版下縮図に取り組み、ここでもまた各派の特徴を学び取りながらめきめきと腕を上げていったのです。
その成果が現れたのが明治23年(1890)第3回内国勧業博覧会でした。出品した作品「東遊図」が褒状を受けたのです。それまで無名であった廣業はこれをきっかけに他の画家たちとも交流を深め、翌年には日本青年絵画協会(会頭岡倉天心)の創立へ参加、さらに『東京日日新聞』や『文芸倶楽部』などにも挿絵や口絵を描くようになります。
上京後わずか数年にして目覚しい活躍をするようになった廣業は、明治30年(1897)には東京美術学校助教授となりましたが、翌年には東京美術学校騒動により共に辞職した橋本雅邦や横山大観らとともに日本美術院を設立しました。ここでは大観や菱田春草らが朦朧体(線画を用いず、色彩により形や光、空間を表現しようとした方法)を試みて保守的な画壇から非難を浴びる中、廣業は伝統的な画法を生かした作品を発表、各方面からの賞賛を得ました。その後廣業は東京美術学校へ教授として復職、さらに日本最初の官設美術展である文展で審査委員をつとめ、自らの天籟画塾では門弟が300人にもなるなど、日本画壇を支える太い柱となりました。好きな信州に別荘をかまえて絵を描き、いよいよこれからの日本画壇を先導するかに見えた廣業でしたが、帝室技芸員に任命された2年後の大正8年(1919)、53年の短い生涯を閉じました。
本展では、明治後期から大正前期にかけて日本画壇の中心的存在として活躍した、寺崎廣業の卓越した筆技の美を当館のコレクションと寄託作品からご覧いただきます。