[気付けば傘寿]
僕の小学生時代は、正直なところ戦後の日本で貧しく、色鉛筆などなく黒ー色の絵を描いていた。 それでも絵は楽しく白黒の世界に色をつけ想像していた。だから夏休みや冬休みの絵日記は、 がんばって描きあげた。 父ちゃんはなかなかおもしろいと褒めてくれたが、学校の先生の評価はひどいものであった。
だからこの時代の僕は、絵の才能はないものだと諦めていた。
父ちゃんは看板業で絵も文字もすぐれていて、素晴らしい才能のおかげで繁盛した。 だから父ちゃんの褒め言葉がなによりの励みになっていた。
僕が美術に目覚めたのは高校生になってからであるから随分遅い。
きっかけは、ポスターコンクールに応募し、全国2位になり全国紙の新聞で発表され自信が芽生えた。
暗く長いトンネルから脱出ができたのである。そして美術大学を目指し希望の扉を開けることができた。
受験は、武蔵野美術大学に決めた。デザイン・洋画科があったからである。
父ちゃんは、大学ではトップの成績を目指せと無理で無謀な目標を突き付けた。つまり全国から才能ある学生が集まっているのだから、それくらいの努力が必要だと思って言ってくれたのだろう。
少年時代のあの長く切ない美術に対しての劣等感を克服できたのは、デザイナーとして活躍し教授である水谷元彦先生との出会いである。もし先生との出会いがなかったら、今の自分はないと思う。
こうして今日までデザインと絵画の二足のわらじを履いて歩んできた。
気付けば傘寿。八十歳になってしまった。日本全国47都道府県、世界の大都市を描き展覧会を開催してきた。
長く辛い劣等感にさいなまれた少年時代。神様はひとつの目標に向かい頑張っているとご褒美をくださる。
そのひとつがこの原田泰治美術館の開館である。そしてこの企画展が開催できることである。長年描き上げた作品を展示できる美術館があることはこんなに幸福なことはない。
それにこの歳になっても多くの人々に愛され励まされているのだから・・・・・・。
原田泰治