會津八一は、昭和20(1945)年4月、東京の自宅が空襲で全焼し、傘杖一本で郷里新潟に疎開しました。その後、郷土の文化振興を心に決めた八一は、夕刊新潟社長となり、この地に留まることを選択します。そして、現在の北方文化博物館新潟分館の洋館に居を構え、数々の書作品や、自らの学芸の集大成となる『自註鹿鳴集』などを世に送り出しました。晩年を過ごしたことで、八一の業績は広く故郷の市民にも理解され、顕彰される契機となったのです。
戦後の八一は、情熱的に制作に取り組む一方で、たびたび街に出て散歩を楽しみ、近隣の仲の良い人々と交流する日々を過ごしていました。八一は、みだりに書や短歌を欲する市民に対しては、大変厳しい態度を示したといいます。しかし、自身の芸術を理解し、敬意を表する市民に対しては懐を開いて、談議に花を咲かせたそうです。
本展では、八一が晩年を過ごした新潟市内にゆかりのある作品資料を中心に、県内外各地で詠んだ短歌の直筆資料や歌碑の拓本などを展示します。
また、本年は八一が歌人としての評価を確立した歌集『鹿鳴集』が昭和15(1940)年に発刊されてから80年になります。『鹿鳴集』に関する当館所蔵の資料もご紹介いたします。