「からたちの花」などの歌曲から交響曲まで、日本初の本格的な作曲家として、また指揮者として活躍した山田耕筰(1886-1965年)は、青年期から音楽のみならず、舞踊や演劇、そして美術にも大きな関心を抱き、さまざまな美術家たちとも交遊しました。
美術史においては、ベルリン留学後に持ち帰った作品によって「シトゥルム木版画展覧会」(1914年)を盟友の斎藤佳三と開いたことが特筆されます。実作品を見る機会の少なかった時代に、ヨーロッパの最先端の芸術状況を日本に伝えた出来事は、若き日の恩地孝四郎や長谷川潔、そして東郷青児らに大きな影響を与えました。一方で、そのベルリン留学時代は、「舞踊詩」の夢を育んだときでもありました。写真に残された自ら踊る姿からは、舞踊への情熱が伝わってきます。そして、まだ存在しなかったオーケストラを立ち上げ、日本独自のオペラの創作を試み、映画音楽に取り組むなど、多方面にわたる大活躍でした。
本展では、北原白秋とともに編集主幹を務めた雑誌『詩と音楽』(1922年創刊)のほか、竹久夢二が装幀した「セノオ楽譜」や、恩地孝四郎による「日響楽譜」なども含め、山田耕筰の活動をさまざまな資料によって跡付けます。絵画、版画、資料など約300点で構成します。