伝統/現代を超克する
マルテル坂本牧子
2019年4月1日、新元号が「令和(れいわ)」と発表された。典拠となったのは、現存する日本最古の歌集『万葉集』に収められた「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す」という一節で、国書からの引用は初めてだという。この発表を受けて、日本人としてのアイデンティティをくすぐられ、どこか誇らしい気持ちになった人も少なくないのではないだろうか。それは、平成の改元時の慌ただしさとは対照的に、かなり入念に準備されものであることに違いないが、何より今、静かに増幅しているナショナリズムの浸透を、肌で感じずにはいられない。2020年に東京オリンピック、2025年に大阪万博という大きな国際イベントを控える日本において、今後もその傾向が、よりいっそう顕著となっていくだろうことは想像に難くない。そんな予感を含みつつ、日本は今、「令和元年」という、世界でただ一つの時代の節目を迎えようとしている。
そんな中、日本古来の伝統や自然、美意識に基づいた「モノ・コト」から、その原点を探っていくような動きが、じわりじわりと現れている。この傾向は、陶芸の場合、世界最古のやきものといわれる縄文土器、やきものの歴史の潮目を変えた「茶の湯」の美意識、手仕事による実用品の中に用の美を見出した「民藝」などが、ここ数年、大きくクローズアップされていることからもよく分かる。
2018年夏、東京国立博物館で開催された「縄文-1万年の美の鼓動」展は、若い層を含めた幅広い人々に支持されて入場者数35万人を突破し、同時に映画『縄文にハマる人々』が公開されるなど、一大ブームを巻き起こした。史上初となる国宝6件が一堂に会すという空前絶後のラインナップに加え、火焰型土器・王冠型土器のダイナミックな露出展示など、展示方法もじつに斬新で、考古学的解釈よりも、あくまでもその造形美に迫り、「縄文=日本の美の原点」ということを強烈に印象づけるものだった。その発端は、時代を遡ること1952年、縄文土器に感銘を受けた岡本太郎が、美術雑誌『みづゑ』(2月号)に「四次元との対話-縄文土器論」を寄稿したことがきっかけだったが、それ以前にも、民藝運動を牽引した柳宗悦、芹沢銈介、濱田庄司らが、縄文土器に惹かれていたことに同展では触れており、現代まで通じる縄文の美の価値観が、時代を超えて、点と点が繋がって創られているのだと感じられた。一方、現代人にとって、縄文から学ぶべきものは何か、ということを、強く意識しているのは、作り手たちであろう。彼らの多くは、単なる「古典回帰」ではなく、現在の自身の創造に通じるもの、あるいはそれらを深化させるためのヒントを縄文に求め、現代的にアレンジしている。長年、内と外の関係を探りながら、手捻りによる独自のフォルムをしてきた重松あゆみもその一人であり、2015年より、自身の作品の中で縄文土器の造形の仕組みを解明していく「Jomon」シリーズを展開し、新境地を拓いている。
一方、2017年春、同じく東京国立博物館で開催された「茶の湯」展では、250点を超える茶道具の名品が勢揃いし、入場者数24万人超を記録した。同時期に東京国立近代美術館でも、歴代の樂茶碗を集めた「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」展が開催され、日本独自の美意識によって発展してきた総合芸術としての「茶の湯」に、高い関心が集まった。特に、樂家の茶碗の展示は、工芸館ではなく、通常、美術作品を展示する本館の広い空間で展示され、当代の十五代樂吉左衞門の茶碗が、モダンな空間の中で、彫刻作品のように展示されていたのが圧巻であった。このように、茶の湯の造形もアートとして見せようという動きが見られる一方、茶の湯の美意識を大胆かつ現代的に解釈し、表現の可能性を拡げようとする作家たちの活躍もまた著しい。カラフルな土を用い、伝統的な茶碗の見どころである梅華皮(かいらぎ)や石爆ぜといった技法を発展させた大胆な茶碗を制作している桑田卓郎は、その代表的な作家の一人で、海外でも高く評価されている。今年4月20日より、東京オペラシティアートギャラリーで始まった現代美術家・トム・サックスの個展「Tom Sachs : Tea Ceremony」もまた、独自の解釈で茶の湯とそれにまつわる儀式などを再構築し、パフォーマンスを含めた彫刻作品として、日本の伝統文化のステレオタイプの見方に一石を投じそうだ。大胆に見える解釈も、じつは茶の湯の本質を変容するものではない。しかし、サックスの作品は、その可能性を押し広げるものである。平成から令和をまたぐこの展覧会は、じつに時機を得た試みといえるだろう。
「民藝」にまつわる動きもまた、縄文、茶の湯ブームと決して無関係ではない。2016年に没後50年を迎えた河井寬次郎、2018年に没後40年を迎えた濱田庄司の回顧展が、それぞれ全国数か所を巡回し、2018年11月~2019年2月、デザイナー・深澤直人のキュレーションによる「民藝 Another kind of Art」展(21_21 DESIGN SITE、六本木・東京)が開催されるなど、民藝への注目度も高かった。印象的であったのは、民藝を代表する作家とのイメージが強い河井寬次郎が、いわゆる「職人性」と「作家性」を合わせ持ちながら、個人作家としての「芸術性」を高く維持していたことである。特に晩年の独創的な作品には、戦後の前衛陶芸勃興と同時代にあって、引けをとらぬ存在感があり、とても民藝の括りに収まりきるものではない。2019年、美術批評誌『美術手帖』(4月号)で「100年後の民藝」という特集が組まれたが、今、民藝の在り方をリアルに掘り下げていくことの必要性と難しさを改めて痛感した。現代における民藝の可能性は、「職人性」と「作家性」、「生活」と「芸術」を結ぶところにあり、「作家性」「芸術性」を否定するものではないはずだ。
しかしながら、どのような表現傾向にあろうとも、やきものという素材を扱う限りにおいては、一定期間の訓練を要する高いレベルの技術力が必須である。それが、手に身体に染み込んでこそ、「表現」という境地に辿り着く。今、やきもので表現するということは、伝統だけでなく、現代をも超克することが求められているのではないだろうか。縄文も茶の湯も民藝も今、この時代(21世紀)に伝わり、しっかりと生きている。そういう時代に、やきもので表現する、ということがどういうことか。今一度、考えてみたい。
Makiko Sakamoto-Martel(兵庫陶芸美術館学芸員)