「子どもも花も大好き」と語っていた画家いわさきちひろ。花は子どもと同様、生涯を通じて描き続けたテーマでした。その暮らしのなかには、常に花がありました。花はちひろの心と創作を支えた大切なもののひとつだったといえます。本展では、花と過ごしたちひろの暮らしと、花の表現の変遷を紹介します。
花を飾る―終戦後の暮らしのなかで
疎開先の信州で終戦を迎えたちひろは、翌年、27歳のときに単身、焼け野原となった東京へと戻ります。宮沢賢治のように土とともに生きるか、東京で画家としての道を模索するか、悩んだ末の上京でした。上京後の自身の姿を描いた素描のなかの1 枚「顔をおおう自画像」には、机に上半身をもたれ、大きな手で顔を隠すちひろの姿が描かれています。周囲にはイーゼルや絵の具、筆などの画材が置かれているほか、小さな瓶のようなものに挿した野の花が飾られています。
家庭に花を絶やさなかった母・文江の影響もあり、ちひろの暮らしは幼いころから花に彩られていました。終戦後のもののない時代でも、小さな花を飾る自画像には、常に傍らに花を置き、慈しむ心を持ち続けた、「ちひろの花」の原点が映しこまれているように感じられます。
花で彩る―下石神井の家で
1952年の春、33歳のときに、ちひろは東京都練馬区下石神井に小さな家を建てました。この年、ちひろは、チューリップや菜の花、水仙、カーネーション、コスモス、椿、フリージアなどの花のスケッチをたくさん描き残しています。親子3 人での暮らしへの喜びと、ちひろの満たされた気持ちが伝わってきます。亡くなるまで過ごしたこの家と、ここで過ごす時間をちひろは愛していました。庭に紫陽花や梅、桃の木を植え、池では蓮の花を咲かせました。1950年代から60年代半ばにかけて、ちひろの仕事の中心だった絵雑誌にも、庭で育てていた花々が登場しています。
「あまやどり」には、葉っぱの裏で雨宿りする蝶と蟻を覗き込む子どもたちの手前に、紫陽花が大きく描かれています。季節ごとに庭に咲く花を見つめ、ちひろは絵のイメージを広げていたのでしょう。画面を構成するモチーフとして花が登場し、花や葉のひとつひとつを丁寧に描写しているのが特徴的です。
花に託す―増築したアトリエにて
1963年、ちひろは夫の両親と同居するため、自宅に2 階を増築します。それまで居間の一角にあった仕事場を2 階の1室に移しました。部屋のなかには鉢植えの花が飾られ、窓からは、家の南側につくられたバラ棚を見下ろすことができました。この年は夫・善明が衆議院議員選挙に初出馬した年でもありました。生活も環境大きく変わるなかで、ちひろの花の表現も変化を見せていきます。
同年、ちひろは雑誌「子どものしあわせ」の表紙絵を描き始めます。「子ども」を題材とすること以外は制約がなく、自由に描くことができたこの仕事に、ちひろは「やっと舞台と出会った気がする」と語り、意欲的に取り組みました。創刊号で描いた「スイートピーとフリージアと少女」は、画面の左右から登場した花が、少女の顔と重なり合っています。物語の説明や情景としてではなく、花と子どもそれぞれを独立した存在として描きながらも、二つのモチーフが呼応し、互いの心情を語り合うちひろの「花と子ども」の世界観が表現されています。
1972年、ちひろは激化するベトナム戦争への反戦の思いを込めて、「こども」と題した3 点の絵を発表しました。これを機に、絵本『戦火のなかの子どもたち』が生まれます。「冬のアトリエの紅一点」であるシクラメンの花のなかに、べトナムの子どもたちの姿が重なって見えたのでしょう。冒頭の頁には、ちひろが書いた詩とともに、赤いシクラメンの花に浮かび上がる子どもたちの顔が描かれています。
若い時代に人間のいのちや尊厳が奪われる戦争を体験したちひろは、「戦場にいかなくても戦火のなかでこどもたちがどうしているのか、どうなってしまうのかよくわかる」とのことばとともに、「ベトナム戦争のなかであれだけ子どもがさわやかに笑っているというのも不思議ですね、本当に自然のすばらしい生命力があるんですね」とも語っています。束の間の時間を懸命に咲く花に、戦火に散っていった子どもたちのいのちを重ねて描き出しています。
「花と子どもの画家」と称されるちひろが描いた花々をご覧ください。