「制御する」
奥村泰彦
制御という言葉は、芸術にはそぐわないものという印象を一般に持たれているのではないだろうか。
その背景には、芸術は自由と結びつくものであり、あらゆる束縛から人間性を解放するものであるべきだという思考があるものと思われる。また、芸術が大衆の動員や扇動に用いられた歴史を顧みるなら、人心の制御のために用いられる芸術のあり方への拒絶もあるかもしれない。ナチスの祭典を盛り上げた造形や社会主義の理念に奉仕したリアリズムは、そういった芸術のあり方を端的に示している。あるいは戦意高揚や国家なり団体なりへの奉仕を訴える表現が、政治的立場の違いを超え、右であれ左であれ、自由主義や全体主義や共産主義といった相違にかかわらず、似通ったものになってしまうのは、一種苦々しい事実である。そのような軛から離れることで、あるいは退廃芸術やら反体制やらといった烙印を押されることを芸術は、むしろ誇りとすべきであると考えるなら、制御という言葉が芸術と相容れないようにとらえられても致し方あるまい。
一方で19世紀からの精神分析学の進展によって無意識が意識されたことにより、人間は必ずしも意識によって制御されているものではないという認識が徐々に広がったことがあり、さらに、あらゆる領域の制御をめざした科学の発展が二度の世界大戦に帰結した事実を前にして、人間による制御を積極的に拒否する態度が生まれたことは、現代の芸術を特徴づけている。具体的にはダダイスムによる偶然の導入や、シュルレアリスムによる無意識の作品化が、今日まで大きな影響を与えるものとなっているのである。人間の理性を制作の拠り所ではなく制約ととらえ、そこから逃れようとする態度は、制作において様々な方法を生みだした。日本の学校教育においては「モダンテクニック」などと呼ばれるドリッピングやポーリング、コラージュといった方法が用いられるようになった背景には、制御から芸術を解放しようとする試みがあったのだと捉える事ができるだろう。
だが、作品制作の立場から見るなら、作品を存在せしめるためにその素材に対して物理的な制御を加えることは、制作することと同義である。偶然を定着させ無意識を表象するためにも、素材を操作し制御することは当然の作業となる。偶然に制作されたというデュシャンの音楽が、偶然にしては乱れすぎているという藤本由紀夫氏の指摘もある。
制作の上で制御がより大きな問題となるのは、作家の手が直接作品に触れない工程を経なければならない種類の造形の場合である。陶芸においては土の造形を終え、乾燥から窯での焼成がその最大のものだろう。作品は作家の手から離れ、土から陶器へと変貌していく。とは言うものの、手から離れる工程には、だからこそより多くの知見が経験として集積しているとも言える。自然に任せるということ自体も一つの選択肢として、土や釉薬の選択から焼成の温度と時間について、若い作家といえども制作者でないものには想像もつかないほどの方法論を持っているのである。その詳細は、経験知として意識されず説明されない部分も多いことだろう。陶で作られてきたものの歴史の堆積は、制御についての知識の厚みに他ならない。それは、伝統となって新たな制作への枷となるかもしれないが、逆に跳躍台として利用できるものでもある。強く矯められるほど跳躍は大きくなる、というのは一つの比喩に過ぎないが、作家にとっては一つの理想として期待される姿勢ではある。
さて、この「陶芸の提案」展では、ギャラリーが選ぶ若手の作家に対して毎年テーマが設定されるのだが、必ずしもそのテーマに沿って制作することが求められているわけではない。あるいはテーマに沿っては制作しようのないようなテーマが設定されている。それはギャラリーが、作家たちの作品に共通するにもかかわらず、必ずしも本人たちに意識されていないような要素を汲み上げたものでもあり、また作家として考察することを要請するものでもある。今年の「制御する」というテーマもまさにそういったものであり、作家たちはこの言葉が投げかけられたことで、テーマを解釈して造形すること以上に、自作についての思考をより深めることが期待されているのではないか。また見る者にとっては、それぞれの作家の制作に対する姿勢を明確にし、作品に向かい合うための入り口の一つとなるものである。願わくば拙文がその橋渡しの一助とならんことを願うものである。
(おくむらやすひこ・和歌山県立近代美術館)