小野竹喬(1889~1979)は、京都で竹内栖鳳(1864~1942)に入門した当初、栖鳳から与えられた「竹橋」という雅号を使用していました。後に竹喬は、師の栖鳳がヨーロッパ視察を境にして「棲鳳」から「栖鳳」と改号したように、「竹橋」から「竹喬」とヨーロッパ留学を境にして改号しています。昭和54(1979)年の没年まで使用した「竹喬」という雅号は、大正12(1923)年から、50年以上も変えることなく使用し続けました。
「竹橋」や「竹喬」という落款(サイン)の書体は、時代とともに変化しており、書体をみることで作品の制作年代を推定することができます。制作年が明らかな作品を順に並べると、時代ごとの移り変わりがよくわかります。「橋」の漢字を使っていた時代を「はし・ちっきょう」の時代として、「竹喬」の時代と区別することがあります。漢字の書体という面では、「竹」の漢字が「升」のような書体となる時代もあり、「ます・ちっきょう」の時代と呼ばれています。
また、落款とともに使用した印章は、「竹橋」や「竹喬」、「林塢(りんう)」、「竹」といった印章があり、生涯を通じて使用した印章は、130種類以上を数えることができます。制作年ごとに作品を並べることで、竹喬がどの時代のどの印章を好んで使用したのか、また、大作のみに使用した印章や箱書にのみ使用した印章など、印章においても変遷をたどることができます。
作品を鑑賞する場合、従来は描かれた主題となるモチーフに関心が集まりがちでした。しかし、この展覧会では、少し視点を変え、竹喬が使用した落款と印章に焦点を当て、その時代変遷をたどります。どの時代にどのような落款や印章を使用したのか、という問いの答えを、竹喬作品を通じてご紹介します。