拝啓 時下益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。
児玉画廊|天王洲では6月9日(土)より7月7日(土)まで、鈴木大介「Perceiving」を下記の通り開催する運びとなりました。昨年の初個展「Index」(児玉画廊、白金)に引き続いて児玉画廊での2度目の個展となります今回、最新作に加え、凡そ6メートル幅にも及ぶ鈴木の最大作品「red painting」を含め、より深化した内容で構成致します。
鈴木は愚直とも思える真摯な態度をもって絵画と向き合い、抽象絵画の絵画たり得る本質について自らにそれを強く問う作品を制作し続けています。おそらくはコンセプトや技術の話ではないのです。鈴木にとっての絵画とは、ただ画面と向き合い、筆を走らせ、色彩と線とで結ばれていく関係性の果てに導き出されていくものです。 前回個展「Index」において鈴木が最も主張した点は、鈴木と鑑賞者が一枚の絵画を前にして、ただそこにある画面に何が存在するのかを齟齬なく伝え・感受する等しい関係性であります。その為に、敢えて記号論から表現を持ち込んで、「Index」(因果関係においてその意味が推察可能な記号)である、と自らの絵画を標榜したのです。自身の描く絵画が、自分にとっても他者にとっても、同じものへと導く媒介としてあるための、記号的とさえ言える純度で表象する力を望んでいるのです。そうありたいと鈴木が望めば望むほど、特殊な手法や技術はその妨げとなるため、描く行為は単純化されていきます。色、線、ストローク、、、最低限の絵画を構成する要素以外に何か見当たるものはないかと探りたくなる程です。「指標」と題されたシリーズで、それを特徴付けるストライプを作り出す為に漂白液を用いていることぐらいでしょうか。しかし、特筆すべきほどの事もないその行いの中から、ただ、美しい画面が生まれてくるのです。
「Perceiving」と今回の個展を名付けていますが、知覚すること、とりもなおさず作品が何を表すのかを認知するという意味に他なりません。前回の個展「Index」に際して、「自明な対象を示すべく描くのではなく、また、鑑賞者との共感や共有のルールにおいて作品を示すのでもなく、鑑賞者に、あるいは作家自身に対してさえも、現前する画面を介してそこに内在するものを想起せよ、と主張する」と鈴木の制作態度を評しましたが、今回の個展で鈴木は殊更その「現前する画面を介し...想起」するという作用についてを強く意識しています。鈴木は制作中に無自覚な行為の結果を後から認識することがよくある、と述べています。これは、自らの絵画を良し悪しの点において客観的に批判するという意味合いが一つ、そしてもう一点、その無自覚な行為、つまり現時点では自分のものではないと認識される要素について、それが一体何であるのか自問し、認識し、自らのものとして受容できるか否かを線引きをするという意味合いがあります。良い絵だ、と判断できる理由となる要素が例えば偶然の産物であったとして、それをどう受け止めるか、自分が一体何をしたのか、それを仔細に自問することで初めてその絵を絵として認知する、ということです。鈴木にとって絵画とは、特定のテーマや題材となるモチーフがないことで、自分が立ち向かうべきものが画面の中にしか存在し得ない、そういうある種の孤独を抱えながら描くものであるのです。度々鈴木が名前を出して参照する先達の一人にバーネット・ニューマンがありますが、彼の次の言葉にも鈴木の「Perceiving」という視点に示唆を与えるものがあります。 “I can only feel fortunate that my art education came not from the scrutiny of photographs and the spectaculars of slides or even from teachers, but . . . from myself in front of the real thing.” 「本物」と対峙する自分自身こそがニューマンの美術的素養を形成してきた、という皮肉と自負に満ちた言説です。絵画として何かを表す際に、その何かをより直接的に、より強固に掴むものでありたい、ニューマン的に換言すれば「the real thing=本物」を捉えるものでありたいという鈴木の切望とも重なります。そのための「Perceiving=知覚」なのです。「Perceiving」は、完全に[per]掴む[ceive]という成り立ちの言葉です。自らの制作行為の終始を余すことなく「知覚すること」。そうすることで初めて鈴木の希む抽象絵画、その表象の純度を高く保つことができるのです。つきましては本状をご覧の上展覧会をご高覧賜りますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。
敬具
2018年6月
児玉画廊 小林 健