絵のカーソンヨンジュの海中画について
本江邦夫(多摩美術大学教授)
ソンヨンジュは多摩美術大学油画科の修士課程に入学し、そのまま博士課程に進学してきた韓国からの留学生である。幼いころ、テレビで水族館の紹介番組を見て、海の中の世界に憧れたという。とはいえ、スキューバダイビングの正式な資格をとり、海に潜るのを楽しみにしていた彼女が、そこでしか見られない浮遊感のある幻想的な眺め、あるいはジンベエザメなどの海の生きものとの強烈で美しい出会いに想を得て、海中の体験そのものを描き始めたのがいつだったのか、詳しいことは分からない。
何よりも私が指摘したいのは、その画面の現実感、真実味だ。この犀利な感性を秘めた非凡な画家にあっては、画面はそのまま海中という現実、もしくはすでにその一部である。対象ないしモチーフとのこの直接性は注目すべきものだ。大多数の画家にあっては画面とは、その上に自由に描くことのできるただの白い板(tabula rasa)でしかない-このことが画面にたいする感覚そのものをはなはだ曖昧かつ希薄なものにしているのは周知の通りである。
「直接性」と言うのは簡単だが、実現するのは至難の業である。ソンヨンジュはそのためにまず何をするのか? 海中の体感、皮膚感覚を半ば無意識的に無数の-ときに小魚やプランクトンの群れを思わせる-ドローイングに起こし、この過程の中から最終的な画面を油彩で、いわば身体的に構築するのである。
一方で、水中は酸欠がそのまま死を意味する点で、時間と空間が濃密に絡まった世界である。メルロ=ポンティは言っている、私たちの身体は「時間と空間の中に住んでいる」(『知覚の現象学』) と。ソンヨンジュの一連の海中画もしくはヴィジョンはその最も見事な表現と言うべきであろう。彼女自身も2017年度に提出した博士論文において、「私にとって真の空間とは、呼吸ができれば生きていられる安楽な地上ではなく、危険な海の中である」と断言している。
技法の面で強調したいのは、水中にあることによって生じる周囲との、地上では到底ありえない一体感の造形的メタファーとして、ここ数年のことだが-琳派なども参照し-彼女が銀箔を使用していることだ。本来ならば日本画の装飾的かつ象徴的な背景でしかない銀箔がここでは生き生きとした実体に姿を変え、水中ならではの濃密な雰囲気を生み出している。ごくたまに金箔を使用したものもあるが、これはたぶん水面に近い、太陽光線の届くところではないかと、私は勝手に考えている。
私は泳げない。だから、海にも潜らない。プールも好きではない、むしろ不気味である。でもそうした私でもソンヨンジュの絵の前に立つと、ずっと昔から海を知っている気分になり、実際、皮膚に海水を感じたりするのである。時間も空間も、森羅万象のすべてがそこに圧縮された、まさに「絵の力」と言うべきであろう。