私は、襖の隙間に哲学的な時間を感じると共に奥の見えない隙間の空間に深淵な未知なる自分の姿が眠っているような気がして仕方がなく、私は、思わずそんな隙間に誘われてしまいます。確信を持てなくても隙間の中に微かにまだ見ぬ自分自身が発見出来るような予感。隙間は、儚い期待のようなものでその魔力に私は、魅了されてしまうのです。
襖のカラフルなグラデーションの間には、シュールでトートロジカル(同義語反復)な時間論が横たわり、いつまでも沈まね夕暮れのように思索に耽る事が出来、逆に興奮の坩堝に嵌る感覚にとらわれます。ふと襖を開けると見覚えのある昔の戦利品の貝殻や石ころ、手紙などが奥に転がってあり、それを発見しても何故か絶対に捨てる事が出来ないのは、何故でしょうか。襖の奥には、未来の未解の自分だけでなく、抽象的な過去の時間も眠っているのです。
私は、大型の建築的な彫刻を製作するのでたまに彫刻学科出身と誤解される事がありますが高校時代から映画を製作する美大映像学科出身だったという事もあり、実験映画やメディアアート、劇映画など映像を全般に取り組む現役の映像作家です。
日本建築における襖の持つ光線の陰影を実は、「映像的」に捉え、それをキネティックライトアートの建築版として製作する意図で当初、製作していましたがいつのまにか哲学的な建築空間として製作するようになり、周囲は、猪鼻が襖という素材を「映像的」に捉えている事を私の作品を知る多くの者は、意外に知らなかったりします。襖は、非常に陰影を伴う「映像的」な資材である事から前衛的であり、日本人は、住環境の中で再び襖に目覚めるべきだと思っています。