西純一の表現の軌跡は、その振幅の大きさに驚かされる。近年の禁欲的ともいえる自画像シリーズに親しんでいた鑑賞者からすれば、今回の猫の絵はたじろがせるに十分である。大阪市立大学高原記念館で開かれた3回の個展の第1回「ホワイト・バランス」(2010)は、99の自画像によって自己の基準をさがし、内面の安定を求める作業であった。第2回「記憶の欠片」(2013)は、他者の自画像、つまり他者を自画として描いた点で大きな移行があった。第3回の「霊性の向こうに」(2015)では、景観の向こう側に存する目に見えぬものと作家との間の、声として聞こえてこない対話を現出させることによって、作家の<自我>像を浮き上がらせてきた。
あえて意図的に行った自己の内側への深掘りにいったん終止符を打って、西純一はどこへ向かおうとしているのか。
西のユニークな表現活動のひとつに、デパートなどで提供される紙袋への絵付けがある。レディメードの紙袋が、彩色を施されることによって唯一無二の作品へと転化する。家の片隅で束となって眠ってしまう紙袋に「いのちを吹き込む」作業として、西はおこなう。
今回の猫の絵は、自画像シリーズの切り詰められた表現とは対照的に穏やかだ。現代美術家としての棘がなくなったのではないかと一抹の不安すらおぼえる。私は西純一の器用さが危険だと思ってきた。多様なリクエストに即座に対応できる技儞と感性。しかし、猫の絵をみつめているうちに、それが大きな誤解であることに気づいた。彼は不器用なほどに「いのち」を描き続けてきたのだ。
「いのち」という言葉の軽さに、使うことがためらわれるが、今回の個展で西純一の「いのち」に触れることができる。それが西じしんの個的な「いのち」なのか、3匹の猫の「いのち」なのか、あるいは普遍的な「いのち」なのか。その振幅の大きさに驚かされるのである。 [中川 真 大阪市立大学特任教授]