60年前の記憶 遥かなる遠山郷
撮影した下栗のネガフィルムが長い眠りから覚めて、天空の里が現れた。60年前の幻の村人達が記録されている。山襞(やまひだ)の馬の背のような山里が姿を現した。風がそよぎ、麦畑がさざ波のように光る。南アルプスの白く輝く聖岳と兎岳とが標高1000メートルに広がる下栗の里を見守っている。急斜面の畑は眼下の遠山川に落ち込み、朝日が昇ると遠山谷から湧き上がる霞が雲海となって谷を埋め、下栗の里を天空に誘った。急な斜面の畑には、山里の歴史を感じさせる農家が点々と建っている。暖かい太陽の光に照らされる農地には農夫たちが精を出し、鍬を入れた。
この素晴らしい山村は南アルプスの山国といえども他に類を見ない。ふもとの村から遠く離れて暮す人々は、遠い昔から守り続けてきた神仏習合の神事によって神を意識し、敬ってきた。人がこの山間に住み着いて、祖先を崇拝し未来を描く。子供たちはこの隠れ里のような下栗で元気に育っていた。しかし、自然はいつも穏やかではなかった。荒れ狂う神は天狗のように天空から舞い降りる。雨乞いの祈り、八百万の神々を湯に招く霜月祭りは古来から受け継いできた下栗の人たちの最も重要な伝承だった。宮元(神主) と禰宜たちが太鼓を叩き、六根清浄と般若心経を唱え、あまたの神を送り出す声が天空の里に響き渡る。宮天伯(みやてんぱく)の神が天狗の面を付け、舞い始めると今年一年の苦楽が締めくくられる。下栗が雪に覆われ、山国は長い静けさに包まれてゆく。 塚原琢哉(写真家)