タカ・イシイギャラリー東京は、10月20日(金)から11月11日(土)まで、榎倉康二の個展「Figure」を開催いたします。本展では、榎倉が1980年代に集中的に発表をしたキャンバス作品のシリーズ「Figure」を中心に展示が構成されます。
私たちの意識が、外界とリアルに感応するためには、自己の歴史的存在と現存在的な側面との葛藤が、必要である。 (中略) 太陽のまぶしい光に照らされた時、昔子供の頃、縁側でしばらく顔に太陽の光を浴びて、急に手で目を覆うと目の前が一瞬まっ黒になり、すぐに真青、赤、黄、紫と変化して行くのを、楽しみながら遊んだ感覚や、その時の暖かい光の感触が、私の肉体には、纏わりついている。それらは、今自分の周囲に満ちている太陽の光の感触とは違っている。この様な現在と過去との感触の違いは、別に子供の頃の話だけでなく、十年前、五年前、一年前、三日前、昨日起こったことでさえ在りえることである。つまり、それらのずれは、私の肉体に、一種の情動として堆積している。この“堆積された情動”は、私が外界と感応する場合の、一つの大変大事な、ベースである。 (中略) 私は、また私自身が、ここに存在していることのいらだたしさ、過去のことを考えていることのいらだたしさ、時間の推移に、対していることのいらだたしさ…に襲われることが、時々あるのだが、その様な時、私は、心の中で“充満した静けさ”が欲しいと、叫ぶ衝動に駆られるのだが、その焦燥心を、和らげてくれるのは、“堆積された情動”である。 “充満した静けさ”とは、事物が存在していることの静けさでもあり、また私自身が、事物存在を純粋に受け入れるための、感性の状態でもあるのだ。 歴史的存在と現存在的な側面とは、“堆積された情動”と“充満した静けさ”を言い変えてもよいと思っている。 たとえば、私の目の前に一本の柿の木があるとする。風景を伴った空間をよぎっている、この一本の柿の木を、完全に私の手の中に握るためには、まず私自身の肉体の波長と柿の木の波長とを、合わさなければならない。その時、私の波長からは、私の意識を乗り越えて“堆積された情動”という波と“充満した静けさ”という波が、出る。そして柿の木の波長と絡み合い、不協波の状態になる。その不協波の中から、ぼうと柿の木の輪郭が、浮かび上がってくる。それは、中性的であるが、非常に具体的な“姿”としてである。“FIGURE 姿”とは、現実的な事物存在と、私の感性の間に揺れ動いて存在する形態のことである。
榎倉康二 『空白の 粒子の中へ 兆みる。』ギャラリー21/1983年 より
人間や物、そしてそれらを取り巻く空間といかに関係を築いていくかを作品を通して問い続けた榎倉にとっては、作品そのものが、自身と事物の間に緊張感を持って存在するものでした。様々な素材を駆使して作品を制作し、展示を展開してきた榎倉の作品世界のそこかしこに感じられる、“滞積された情動”と“充満した静けさ”とは、「Figure」の制作をもってひとつの完成形を迎えるといってもよいでしょう。