玉川学園では、「全人教育」の理念の下、体験を通した学びや創造を重視する「労作教育」や、自らの関心あるテーマをとことん追求する「自由研究」という独自の教育を展開しています。1960(昭和35)年に中学生による自由研究考古学クラブが発足し、彼らの成長とともに1967(昭和42)年、玉川学園職員であった考古学者の浅川利一を指導者とする「玉川学園考古学研究会」に発展しました。この研究会は、玉川学園で学ぶ上は大学・短大生から下は小学生まで、考古学に興味をもつ多様な世代が参加する非常にユニークな組織でした。
玉川学園が所在する町田市域は、1960年代からベッドタウン化が始まり、それに伴い都心の大学が主体となって遺跡調査も行われるようになりました。浅川は、町田在住の考古学研究者として市域の文化財保護に奔走していましたが、1960年代後半から開発の勢いが増す中で、玉川学園考古学研究会を率いて、自ら精力的に市内の遺跡の発掘調査を実施していきました。
この時期は、遺跡調査を行政主体で実施するようになる前で、町田を地盤とする研究集団で遺跡調査を担えたのは、玉川学園考古学研究会が唯一の存在でした。地元密着の考古学的調査は、玉川学園関係者によって開始されたのです。
玉川学園考古学研究会では、縄文時代中期の集落・後期の墓域・晩期の環状積石(ストーンサークル)である田端(たばた)遺跡(東京都指定史跡)(1968-69年調査)や、土器捨て場からユニークな形状をしたものを含め多数の土器が発見された御嶽堂(みたけどう)遺跡(1969-70年調査)など、重要な遺跡の発掘調査を立て続けに手掛けていきました。
この度、当時の関係者の協力を得て、田端・御嶽堂両遺跡の調査資料について、改めて整理を行い発掘調査報告書を刊行することができました。これを記念して、両遺跡の出土品の公開を中心に、調査を担当した考古学研究会の活動の軌跡をたどり、さらに玉川学園における考古学研究の歩みや、研究会を生み出した自由研究での取り組みを紹介いたします。