「水中エンジン」は、國府が愛用していた軽トラックのエンジンを水中に沈め、稼働させるという作品です。エンジン音とともに熱および排気が発生し、水槽内の対流が可視化されると同時に展示空間の外まで敷設されたマフラーから排気ガスが排出されます。
この作品の成立は2012年であり、言うまでもなくそれは現在まで続く「震災後」という時間が始まった時でもあります。國府自身も「水中エンジン」が福島第一原子力発電所の事故から影響を受けて構想されたことを明かしています。結果として、この作品は非常に「脆い」ものとなりました。壊れやすい。メンテナンスが必要である。完成していないのではないかとすら思える。
通常、再制作とは作家の意図を踏まえ、作品を忠実に再現するものです。しかし本企画は、それに多くの困難・不可能性を抱えている。部品もほとんど残っていませんし、國府自身が展示会場にてメンテナンスを施し続けていた、という状況を再現することも不可能です。したがってこの再制作は失敗に終わらざるを得ない。しかし、逆に問いますが、アートにおける成功とは何なのでしょうか。この作品が明らかにしてしまう不完全さこそが、この社会の有り様をそのまま示しているのではないでしょうか。私たちはそもそも原子燃料サイクルが完成しないことを既に知っています。この社会システムが決して完結したものではなく、極めて脆いことも。「水中エンジン」は震災および原発事故への反応や対応ではなく、それを象徴化せしめた作品というわけでもなく、その「構造的欠陥」が芸術の破れであると同時に、この社会の破れでもあるという事実を反映してしまったという点において、震災後の芸術作品の中でも白眉であると言えます。
この再制作プロジェクトはそのような「構造的欠陥」、「incompletion」な状態を積極的に引き受けるものです。しかし逆説的に、それはオルタナティヴな共有システムと記録システムの可能性へと繋がっています。美術館において共有が「展覧会」に、記録が「収蔵」に集約されるとしたならば、「水中エンジン」の「反復」はどこか別の方向へと進んでいく。共有されざるものの共有と、記録されざるものの記録の方へ。個人/故人の神話化や完成作品の永続化から離れ、ただありふれた、思い立ったかのように繰り返される追悼のようなものに。文:遠藤水城