昭和11(1936)年6月10日、土田麦僊は49歳の生涯を閉じる。その画塾、山南塾に集っていた100名以上の日本画家は、師の早い死の前に指針を失い路頭に迷う。昭和8(1933)年11月に麦僊の師竹内栖鳳の画塾、竹杖会がすでに解散しており、京都画壇にあって、山南塾はこの竹杖会の第一の後継と見なされていただけに、麦僊の死が与えた影響は計りしれない。このたびの企画展では、山南塾の画家たちが辿った足跡を、麦僊の画業、そして国画創作協会展をはじめとする京都画壇の歩みを通して検証する。
大正12(1923)年5月1日、土田麦僊(1887-1936)はヨーロッパから帰国し、その後しばらくして画塾となる美術研究所を設立する。これ以前の大正4(1915)年には伊藤草白、同6(1917)年には吹田草牧が竹内栖鳳塾にありつつ麦僊に師事していた。美術研究所はやがて、麦僊宅が衣笠山の南にあったことに因んで山南塾と命名される。大正15(1926)年11月の美術記事の中で麦僊は、山南塾には塾員が百名余りおり、毎月研究会を国展の試作展として開催し、幹事を小川栄太郎が務め、主要な塾生に丸岡比呂史、水田樹平(要樹平)、伊藤草白、吹田草牧、猪原大華、丹野金示、里見文雄、岡村宇太郎、福田豊四郎、小松均、佐原修一郎、恩田耕作、三岡明がいると語っている。国展の創立会員に次ぐメンバーが、この山南塾の塾員であったことが分かる。
国展解散後の昭和4(1929)年には、国展の後継団体として設立された新樹社に山南塾は参入して、ここを帝展や再興院展への試作展として活用し、それぞれに国展に替わる活躍の場を見出していく。しかし、予期せぬ麦僊の死去により、山南塾は解散する。その後の昭和13(1938)年7月、「一切の審査を要する展覧会には出品せず」と唱える柏舟社が、林司馬、澤田石民、要樹平、新見虚舟、梅原藤坡、伊藤仁三郎によって結成される。またこの柏舟社に刺激を受けて、昭和14(1939)11月、麦僊の正系を掲げる吹田草牧、徳力富吉郎、小松均、稲田麦楓らによって山南会が結成される。東京と京都を拠点に活発な展覧会を展開したが、戦火の深まりの前にいずれも継続を絶たれた。
今回の展覧会では、山南塾の画家たちが国展、新樹社展、帝展、再興院展、そして柏舟社展、山南会展などに出品した45点と、土田麦僊の作品15点を合わせた約60点により、近代日本画史上における山南塾の確かな業績を多くの方々にお伝えしたい。