私の場合、撮影はポラロイド社の、4 X 5インチのネガタイプ「ポラロイド55T」フィルムを使い、自製のピンホールカメラで行う。引抜き現像後、定着作業をしないので、このネガフィルムに残る現像液の残滓(かす)は大気中の変化を、素直に刻むレセプター(受容体)として機能する。 つまり、フィルムが単に乾燥するだけでなく、作業場の小諸(浅間山麓、標高960メートル)では、残滓が凍結してナイフで切り裂いたような鋭利な亀裂を表面に宿すほどに寒冷になることもある。また、真夏の高温ではカラカラに凝固して、白い粉末を積み上げる。まるで事件現場の遺留品のように、フィルム自体が置かれた状況を雄弁に語るのである。
ネガ・フィルムの経時変化から、被写体のイメージが刻々と変化していく過程がみてとれる。きわめて不可知領域の出来事といっていい。ここでは「何がどんな様子で写っているか」というイメージの明証性がゆるやかに希薄になっていく。撮影によって得られた写像は、休みなく発生するノイズによってもう一枚の 写像、「別なる自然」を形成していくことになる。
このことから、ひそかに思うのだが、この一連の運動系の奥には全宇宙に作用をおよぼしている動態的なプログラムのひとつが、象嵌されているのではないか、と。
「移動・遷移」、「変化・変容」を制御しているメカニズムの古層につきあたった感覚をおぼえるのだが、きっとこれは、複雑系のまっただ中のできごとに違いない。あるいは、存在全体に関わる「自明の理」なのか。
ヘラクレイトスはこのことを『Panta rhei』と称した。
田中孝道