坂田稔は1902年、愛知県碧海郡富士松村に生まれました。1920年代後半、大阪在住時に〈浪華写真倶楽部〉に所属し、「新興写真」の影響を受けた表現で同倶楽部の中堅として活動しました。1934年に名古屋に移住し、昭和区曙町でカメラ・写真材料店を経営する傍ら、画家の下郷羊雄(1907-81)や、詩人でもある山本悍右(1914-87)、田島二男(1903-2002)、そして海外の超現実主義の動向を紹介していた山中散生(1905-77)らと交友、彼等とともに新たな写真表現を目指して行きました。
また、写真制作とともに1937年からは写真雑誌で独自の写真論を展開しはじめ、全国でも屈指の前衛写真の論客とも目されるようになりました。坂田が主導した表現とは、1920年代後半に将来されたドイツの新即物主義(ノイエ・ザハリヒカイト)の影響を受け、対象をクロース・アップで捉えたものでした。坂田と彼等の活動は、当初は同好会的な集まりとして始まりましたが、やがて名古屋の前衛画家グループと合流し、さらに1939年2月には明確な表現志向をもつ作家集団として〈ナゴヤ・フォトアヴァンガルド〉を結成するに至り、その作品は全国的にも注目されるようになりました。
しかし、1930年代末、全体主義的な思潮の高揚により「報国」や「文化協力精神」が叫ばれ、また一方で写真本来の機能を強調した「報道写真」が台頭して来るなかで、「前衛写真」はその存在意義を問われて行きます。そうした写真表現を取り巻く社会情勢の流れのなかで、坂田の写真に対する論調と表現への指向は次第に先鋭化を極めて行き、やがてメンバーとの間に微妙なずれが生じていくことになります。1939年11月〈ナゴヤ・フォトアヴァンガルド〉は解散、その後新たに〈名古屋写真文化協会〉が発足され、「前衛」から「造型」ヘと移行しながら、坂田は写真の社会的役割を強く意識した表現と活動を実践して行きます。
今回の展覧会では、「新興写真」「前衛写真」さらには「造型写真」と展開した坂田稔の表現活動の全容について、とくに彼の指針が大きな展開を見せた1939年を転換期としてとらえ、二部構成により紹介いたします。
各々が目指す表現の指向性によって離合集散を繰り返した若き前衛の時代に、写真の機能に拠りながら、個人的表現と社会的貢献という相容れない要素を抱え込み、やが・・・