長崎ゆかりの銅版画家・渡辺千尋(わたなべ・ちひろ 1944-2009)。生前、国内でも数少ないエングレーヴィング*の名手として知られた彼は、1995年に、長崎県の島原半島にある有家(ありえ)町(現・南島原市)からある仕事の依頼を受けました。16世紀末に同地にあったセミナリヨ(イエズス会の中等教育機関)で制作された銅版画《セビリアの聖母》を復刻するという仕事です。
《セビリアの聖母》は、日本におけるキリスト教布教史の貴重な資料であると同時に、日本最古の銅版画の一つとして版画史上極めて重要な作例でもあります(現在はカトリック長崎大司教区が所蔵。長崎県指定有形文化財)。数奇な運命をたどったことでも知られるこの歴史資料を復刻するという困難な作業を、渡辺は、試行錯誤の果てに翌1996年に完遂します。しかし作業の過程でいくつかの謎に突き当たり、作業を終えた後も、キリシタン迫害の歴史や図像の伝播、当時の制作プロセス、そして作者である版画家の正体などについて調査と思考を重ね、独自の仮説にたどりつきます。そしてその成果をまとめた文章が、2001年に第8回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞して『殉教(マルチル)の刻印』として刊行されることになるのです。
本展は、同書や渡辺の残した資料に基づき、彼の《セビリアの聖母》復刻をめぐる一連の作業と思考をたどるものです。また、この稀有な体験が、その後の渡辺の創作に大きな影響を与え、晩年の渡辺による長崎の歴史の「再発見」に繋がったことも紹介します。
なお、本展では、カトリック長崎大司教区のご厚意により、オリジナルの《セビリアの聖母》の特別展示が実現することとなりました。オリジナルの《セビリアの聖母》制作から420年、そして渡辺の復刻作品の制作から21年を経て開催する本展が、400年の時を超えて共振する二人の版画家の魂に触れる機会となり、また日本におけるキリシタン史と版画史上のひとコマについてあらためて考える機会ともなれば幸いです。