新しい日本画の表現を追求し続けた画家、吉岡堅二(1906-1990)の生誕110年を記念して、その画業を回顧します。
吉岡堅二は1906(明治39)年に日本画家、吉岡華堂の次男として東京に生まれますが、華堂は堅二が10歳のときに42歳で亡くなりました。堅二は一時期彫刻家を目指すものの、1921(大正10)年、15歳のときに、華堂と親交のあった画家、野田九浦に入門して、父と同じ日本画の道を歩み始めました。以降九浦のもとで日本画の伝統的な技法を着実に吸収し、1926(大正15)年、20歳のときには帝展に初入選します。1930(昭和5)年の帝展では特選を受賞するまでになりますが、この頃より西洋絵画の手法を取りこんだ表現を自身の制作に用い始め、新しい感覚の日本画を発表して注目されます。やがて志を同じくする若い画家たちとともに「山樹社」、「新日本画研究会」、「新美術人協会」といった会を結成して斬新な作品を積極的に発表し、日本画の革新を牽引する存在となってゆきました。
その活動は戦争で一時止まりますが、戦後間もなくに、山本丘人、上村松篁らとともに、「我等は世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」との綱領を掲げて「創造美術」を旗揚げし、以後の「新制作協会日本画部」、「創画会」においても、現代的な日本画の表現を世に問う力作を次々と発表して、常に会を代表する画家の一人として活躍しました。
また一方では、1959(昭和34)年から東京藝術大学の教授に就任して後進の指導にあたり、法隆寺金堂壁画の模写にも1940(昭和15)年、1967(昭和42)年の二度にわたって携わるなど、古典的な画材、技法に精通した画家としても評価は高いものでした。
このような多彩な活動を展開して、1990(平成2)年に83歳で亡くなった吉岡堅二の芸術を、初期から晩年までの作品約40点によって振り返ります。