決して特別なものを描いているわけではない。日常の風景や家族や目の前に置かれたものたち。
でもそれらは、渡邊かおりを通すとこんな作品たちになる。いや、なってしまうが正しいかもしれない。
本人も展示されるまで作品を客観視できないままでいる。
作品に、描かれるものに、描いている部分に、その筆先に気持ちを込め続けもう周りなど見えない。
だから、作品は出来るのではなく、出来てしまうのだろう。
作品に込められたその思いは、画面から匂いたつようにキャンバスの周りを漂っている。
それに触れてしまったら、もうその棘を抜くことはできない。