ボリス・グロイスは「インスタレーションの政治学」で、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」に基づいて芸術作品の地位を考察している。ベンヤミンの時代と異なるのは、現代が芸術の大量生産時代であることだ。それは、非常に多くの人間がSNSに自身の作成したテキストや画像をアップロードする状況のことを指す。そうした情報は、複製技術に立脚するために、基本的にはアウラを持たない。その一方で、美術インスタレーションにはこうしたテキストや画像が多く引用される。本来的にはアウラを持たない情報は、美術の制度と場所に投げ込まれることによって新しくアウラを獲得することになるのだ。
ここで重要なのは、インスタレーションという場所が、情報が大量流通する一般的な場所と美術館という特権的な場所の中間に、両義的に位置することである。その場所はアーティストによって制作され、さらに美術制度によって保障されるとしても、その中に完全に収まるわけではない。インスタレーションが大量流通する情報にアウラを与えるとしても、それは一過性のものである。加えて、その情報が一般的な場所で大量流通し続けていることがそのアウラを曖昧なものに思わせる。そもそも、文脈の問題さえ除外すれば、両者を区別することは基本的にはできない。インスタレーションが与えるアウラは、情報の大量流通という現実に常に脅かされ続けている。
私は前回、展覧会の会場を、ホワイトキューブという超越的な場所と建築に帰属する世俗的な場所のふたつが重層化したものとして考察した。そこで理解したことは、美術という制度がその中にあるものを美術作品として位置づけるという意味は、そう単純な話ではないことである。当たり前のことだが、制度を問い直せば、その中に置かれるものが美術作品であることも疑わしくなる。逆説的だが、美術の制度は、美術作品が美術作品として認定されていることを前提とするのだ。ここからは、美術作品として自明ではない美術作品から再出発するという異なったアプローチの必要性が見えてくる。社会の中を大量流通している情報から切断不能なインスタレーションを考察の起点にするのである。
今回の展示によって、大量流通する情報との視覚的な同一性と差異性が浮上してくることを予期している。そのことを通して、美術作品と美術のための空間を、美術制度を、その中にいる私たち自身を再考できると考えている。藤井 匡